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                   「題未定」

 

                    第一章


  1.

  真夏の陽炎に、魂消る悲鳴がまたひとつ響いた。
  声からすると若い女だけど、ひょっとしたら女性変身願望のカスタマーかもしれない。
  まあ、どちらにしてもまたひとり死んじゃったわけだ。これであたしがここに到着してから
 三人目。情報だと人質の数は四人だったわけだから、こりゃ、犯人は人質って言葉の意味を理
 解してないね。このままじゃ皆殺しだ。
 「ねえ、はやく突っ込ませてよ」
  いらいらしながらあたしは言った。
 「それ、女の子のセリフじゃないわよ」
  のほほんとルットが応える。このお嬢さんときたら装甲車の運転席に納まったまま、カラバ
 のハンバーガーを平然とパクついている。これで三つ目。袋の中に残りはひとつ。
 「下品なこと言ってないでさあ、あんたがそれ食べ終わるまえに、向こうは全員御陀仏だよ?」
 「だって――」
  と指についたソースを舐め取りながら、
 「突入許可、下りないんだもん」
 「そんなもん、いつまで待ったって下りやしないよ」
  うんざりと四方に視線を巡らせれば、要塞銀行の周囲は眼を血走らせた武装警官隊がぐるり
 取り巻いている。しかもその、幼児ならば失神しかねないような殺気立った眼光は、犯人の立
 てこもっている銀行へではなく、どちらかといえばあたしらの方に多く注がれているのだ。
  まったく、面子に拘り出した権力集団ときたら処置なしだわよ。根無し草のセミ・プロなん
 ぞに手柄を奪われてなるものかと、こ汚いプロ根性が見え見え。一応法規上、現場においての
 統括権は向こうさんにあるとはいえ、結果オーライが通例となっている昨今、このままじらさ
 れてたら他のチームに先手をとられちゃうじゃない。
  あたしはあまり見たくもない「お仲間」にちらと視線を投げかけた。
  やれやれ。
  どいつもこいつも、揃いも揃って極悪面。
  今日の稼ぎがなけりゃ、明日にでも銀行を襲う側に立ちそうなやつばっかり。とりあえずは
 おとなしく待機してるけど、こちらも負けず劣らず眼が血走ってる。あと五分も待たされてた
 ら、絶対にぶち切れて突入するね。賭けたっていい。
  あんな連中と同業だなんて思いたくない。なんのつもりか上半身裸のゴリラみたいな男なん
 て、左手をでっかいドリルにカスタマイズしてる。まあ、警官隊が黙っているところを見ると
 特別許可は受けているらしいけど、そうじゃなかったらあんなもの、違法カスタマイズで即お
 縄だ。下品。悪趣味。ああ、醜い。
  などと思っていると、件のドリルゴリラ、あたしの視線に野生の感で気付いたらしい。
  なんでえ、なんぞと凄まれると思ったら。
  ぐえ。
  ばちりとウィンクされてしまった。
  同業者に対するよしみのつもりか、それともあたしの魅力にまいっちゃったのかはわかんな
 いけど、寒気が走ること夥しいったらありゃしない。
 「警官隊、突入するみたいよ?」
  ルットがぼんやり言ったので、あたしははたと視線を返した。これでドリルゴリラに返礼す
 る必要がなくなった。やれありがたや。
  なるほど、確かに警官隊は突入準備を整えていた。
  しかも機械化機動隊のお出ましだ。
  白と青に塗り分けられた身長ニメートルほどの個人用機械化装甲服は、名称こそ特殊防弾服
 となってるけど、そんな受身の装備ではないことは周知の事実だ。振動モーターの生み出す駆
 動力のおかげで、三体もあれば戦車とだってタメを張れるという、強力な戦闘力を有している。
 御値段の方もそれに見合って物凄く、軍隊だっておいそれとは導入出来ないが、流石は天下の
 警察機構といったところだ。
  それが都合六機。
  おおげさな、とは思わない。
  銀行の入り口には無人警備ロボットが二機、スクラップになって転がっている。あれだって
 戦闘力でいえば警察の装備にひけを取らないのだ。
  そもそも要塞銀行に押し込みをかけようなんていうやつが、まともであるはずがない。対犯
 罪者用に要塞化された銀行は、その名の通りに難攻不落だ。これほどワリにあわない犯罪もな
 いだろう。
  まあ、あっさりそこに侵入しちゃった上に、どんなカスタマイズをしてるのかは知らないけ
 ど、とにかく素手で警備ロボットを粉砕しちゃうようなやつだ、用心にこしたことはない。犯
 人は武器を携帯していないとは警察から寄越された情報だけど、そんなもの、はっきりいって
 ウンコの役にも立たない戯言だ。
 「ほら、もたもたしてるから警察にやられちゃったじゃない。人質の安全のためだとかなんと
 か言っちゃって、結局あたしらを牽制してただけなんだよ」
  文句たらたらのあたしに、ルットはやはり泰然自若だ。
 「そんなこと言ったって、後で命令違反で罰金、なんてことになったら面倒でしょう?」
 「微々たるもんよ。要塞銀行襲撃犯確保となりゃ、報奨金だってビッグよ」
 「でも、あたしたちが突入したら、皆だって黙ってないよ? 他のチームに出し抜かれたら?」
 「やってみなきゃわかんないでしょ!」
 「わかんないから待機してたのに…」
 「保守的すぎんのよ、あんたってば!」
  あたしはがりがりとショートボブの頭を掻き毟った。
  猛烈にカユイ。
  怒りが体温を上昇させたせいもあるけど、ここ三日くらいお風呂に入っていないのが大きい。
  それというのも、おまぬけなルットが、どこぞのテロリストが行った爆破事件の余波で水道
 管が破裂、付近一帯が断水となっているのをすっかり忘れて、思いっきり湯沸し器を空焚きし
 たのが原因だ。
  火事にならなかったのがせめてもだが、当然、湯沸し器は故障。なんせ水が流れなければ点
 火しないという、基本的な安全装置もついていないようなヤミ商品だから、修理も不可能。新
 品を購入するのは、そもそも安くて危険がウリのヤミ市を漁ってたようなあたしらだから、こ
 ちらは不可能の上に絶対の文字がつく。
  かくしてお風呂が使えないという不潔極まりない生活に追い込まれたわけだが、当のルット
 は激高するあたしに向かって、
 「銭湯があるじゃない」
  と言ってのけたものだった。
  冗談じゃない。銭湯なんて今時はホモかヘンタイの溜まり場でしかないのだ。浴場だか欲情
 だかわかりゃしないのだ。その事実を象徴する事例として、銭湯業界に対して、性風俗産業に
 適応される特別課税実施に踏み切ろうかという政府の動きもあるらしいのだが、こちらは日本
 文化を護る会とやらが一致団結した結果、未だに足踏み状態だ。
  やれやれだ。
  あんなのが日本文化だってんなら、あたしゃ、今日からでもドイツ人になるよ。
  とにかく銭湯というのは、うら若き乙女としては、絶対に足を運びたくはない場所ワースト
 ワンのタイトルホルダーだってのに、よくも言ってくれたものだった。知らないのならいいが、
 知っていて言うのだからタチが悪い。
  余計なことまで思い出して、当然ながら余計にいらいらしてきた。
  地団駄のひとつでも踏んでやろうかと思ったが、止めておいた。どちらにしても武装警官隊
 内で最強を誇る機械化機動隊の突入である。もはやあたしらの出番はない。怒るだけ無駄であ
 るし、なんといっても美容に悪い。
  ちらと横目で見ると、機械化機動隊の六機は、まさに突入に転じようとしているところだっ
 た。無音行動用の内部機構と全身を覆う吸音皮膜のおかげで、いかにもメカメカしい巨体が動
 いているのに、駆動音どころか、ほとんど足音もしない。
  実に不条理極まりない光景であるが、流石に連中、仕事は速い。
  大仰な正面ロビーへと続く超硬質プラスチック製自動ドアを突き破り、彼らは定められてい
 るであろう順番に則って、速やかに銀行内へと突入していった。静かなる突入劇には違いない
 が、人質の命が掛かっているのだから、彼らもそれなりに緊張しているだろう。
 「ルット、かえろ。おなかすいたよ」
  項垂れて装甲車の助手席に回ろうとしたあたしだが、びくりと背筋を伸ばして振り返ってし
 まった。
 「あらら」
  というルットの、驚いてるんだか驚いてないんだかわからない声のせいではない。
  それよりも一瞬早く、陶器の割れるような鈍い音と共に、銀行の透過性セラミックで出来た
 防弾窓が内側から砕け散り、なにやら球状の物体が高速で飛び出して、バリケードを築いてい
 た装甲パトカーの車体に当たって路面に転がり落ちたのである。
  そこでルットが、あらら、と言ったわけだ。
  まさに、あらら、であった。
  一目でそれが機械化機動隊、個人用機械化装甲服のヘルメット部分だと、あたしは察した。
  更に言うのならば、内部には機動隊々員の頭部を納めたままの、だ。
  血の筋をひいて転がった生首が無機質に静止すると、途端に警官隊から怖気を呼び覚ますよ
 うな殺気が膨れ上がった。事実、遠巻きにして野次馬を決め込んでいた群集の何人かは、呼吸
 困難を起こしてその場に昏倒していた。
 「野郎…」
  警官隊のどこからか、どす黒い怒りを含んだ怨嗟の呻きが、冥府の風もかくやといわんばか
 りに立ち昇った。
  機械化機動隊は六機。戦車ニ両を相手に出来る数だ。
  その一機があっけなく倒され、隊員一人が殉職した。
  いや、それだけではない。
  またひとつ、窓をぶち破って生首が飛んできた。
  そしてまたひとつ、そしてもうひとつ。
  規則正しく投げつけられた生首は都合六つ。
  意味するところはひとつしかない。
  ――機械化機動隊は全滅した。
  たった一人の犯人の手によって、実に静かに、実に速やかに、だ。
  それがどれほど恐ろしくも常識外れな現象であるのか、素人よりはあたしらの方がより深く
 理解していただろう。野次馬からは悲痛な、そして興奮したざわめきが流れ出したが、さっき
 まで機械化機動隊の突入に不満の声を漏らしていた、あたしたち臨時契約協力者の肩書きを持
 つ者の間には、死のような沈黙が流れたのである。
  それでも警官隊からの殺気は消えなかった。いや、むしろ仲間の生首が路上に転がるたびに、
 それは益々強くなっていた。彼らとて――いや、彼らこそが目の前の惨状の真の恐ろしさを理
 解している人種であるにも関わらず、仲間の仇を討とうという気概には微塵の揺らぎもないの
 だ。
  あらゆる犯罪に対抗する国家機間である警察機構。犬、などと蔑まれる彼らではあるが、そ
 れだけに実力は非常に高い。国際条約の条文に、退役警官のあらゆる軍事関係への就任はこれ
 を認めない、という一節があるのもむべなるかなである。
  しかし、それでもあたしらのような商売に就いている人間がいる。警官が実力を要求される
 のは、とりもなおさず犯罪者の力が強大であるからであり、既に現在の強力無比な警察機構と
 いえども、多発する犯罪の極一部においては、力が及ばないのである。
  即ち、今回のような事件だ。
  彼らもそれを理解しているから、怒りに任せて突入するような無謀なことはしない。
  とはいえ、なにもしていないわけでもない。犯人を八つ裂きにしてやりたい気持ちを堪えな
 がら、訓練された冷静な状況判断能力に頼り、既に打開作を見出さんと細々とした動きが見ら
 れ始めている。
  そしてあたしも、だ。
 「ルット、いくよ」
  小さく言って、麻痺状態のお仲間に気付かれぬよう、装甲車の後部に回り込んだ。
  あたしたちの自家用装甲車は小型のツーシーターだけど、そこには小柄な車体には似合わな
 いくらい大きなコンテナが付属している。ルットのチューンナップによる法規違反ぎりぎりの
 ハイパワーを叩き出すエンジンにモノをいわせて、そいつを牽引しているのだ。
  乗降用ハッチを開けてコンテナに入ると、そこにはあたしの強力な相棒が待機していた。
  膝を抱えるようにして着座している蒼い人型は、人体カスタマイズを可能にしたハーフテク
 ノロジーの申子である、人造強化服である。バイオテクノロジー、そしてエレクトリカルテク
 ノロジーの融合によって生み出された、半人半機の強化服だ。
  尤も半人、とはいっても、べつに有機物が使用されているわけではない。ハイパーカーボン
 の骨格に、電導性収縮物質を利用した人工筋肉を持ち、耐熱耐弾性能に優れたシリコン製の皮
 膚を纏った、その意味では完全な無機物の塊である。
  まあ、口の悪い連中はフランケンシュタインのモンスターなどと呼ぶが、あたしはべつに気
 にしない。歯車やら鉄板やらで造られた油くさい強化服よりは、ずっと優美だと思っているく
 らいだ。パワーや防弾性能では流石にアイアンモンスターには劣るのだが、しなやかさ、素早
 さ、そして様々な状況に対応しうる柔軟性に富んだ運用面の利点を顧れば、あたしらのような
 稼業に就いている人間にはうってつけなのだ。事実、戦場などの砲火飛び交う場所で運用する
 には不適格だと烙印を押され、軍隊には未配備なのだが、様々な任務を遂行することをその旨
 とする特殊部隊には、それでも人造強化服は配備されている。
  もちろんそんな物騒なもの、おいそれと民間人が購入出来るはずもない。それなりの国家試
 験をパスして認可を受けた上、バカ高い登録料とクソ高い特別税を納めなければ所有は認めら
 れないのだ。法が定めているのだから法外とはいえないが、それはそれは痛い出費になる。自
 らの肉体をカスタマイズしている者ならともかくとして、あたしらのように親から貰った身体
 を大事にしていて、尚且つ特殊能力を持たない臨時契約協力者の中には、維持費と報奨金のバ
 ランスが取れずに、足を洗った者が何人もいるのだ。そんなわけだから、堅気の人間はこんな
 ものにはテを出さないどころかメもくれない。
  あたしは人造強化服の背後に廻った。
  背中のハッチに、白い文字で「翠刃」と書いてある。あたしらがつけた愛称だ。なんせスク
 ラップ置き場で見つけたこいつを、ルットと二人掛かりで復元したのだ。おかげで原型とは大
 分見た目も変わってしまったが、そのぶん愛称をつけたくなるくらいの愛着もわく。ルットは
 なにやら横文字を並べ立てた愛称を主張していたが、あたしの、覚えられないからダメ、とい
 う拒否に、あっさり引き下がった。妙にしみじみと納得していたのが気になるが、ふん、勝負
 は勝てばいいのだ。
  小さなパネルをスライドさせてボタンを押すと、ちょっとした軋みを伴ってハッチが開いた。
  翠刃のハッチは複雑に配された小さな部分が、観音開きに開くことによってその機能を果た
 している。人間で言えば肩甲骨の部分や、背中側の肋骨の部分だ。この辺りは外骨格になって
 いて、軽量セラミックによる硬質な装甲になっている。
  ハッチが開くと、今度はその内側にある薄い人工筋肉が、中央から左右に爆ぜ割れた。丁度、
 蛹の中から成虫が現れるときのようだけど、もちろん中から虫なんて現れない。この場合は出
 てくるのではなくて、あたしが中に入るのだ。
  苦労してもぐり込む。
  翠刃のコクピットは胸郭内部にある。非常に狭苦しいそこにはオートバイのシートを斜めに
 据え付けたような着座架があって、操縦者は背中を丸めてそこに跨るのだ。人造強化服は通常
 の強化服と違って、着込むのではなくそこに納まるわけだ。そのために小柄なあたしでもきつ
 きつな上、それでも機体の全高は四メートルを超えてしまう。警察が通常強化服を使用してい
 るのは、この大きさがネックになったからだ。
  着座架に収まったあたしは、まさにオートバイの乗車スタイルになった。膝を折り曲げた足
 は棒状のステップに置き、つま先には小さなペダル式のレバーが当たる。両手はグリップ式の
 スロットルがついたハンドルを握り、やはりそこにも数種類のレバーやスイッチが付属してい
 る。
  オートバイと違うのは、ハンドルの上方にある水中眼鏡のようなペリスコープに顔面を押し
 付けているところだろうか。操縦者はここから外部の視界を受け取るわけだが、これはペリス
 コープの名の通り、単純な併せ鏡の原理を利用しただけの原始的な装置であって、決して電子
 モニターなどの機器は使われていない。なんでまたそのような方式が採用されているのかと言
 えば、理由はひとつ。テレビカメラ越しの映像では遠近感や機体の挙動、それに物の大きさな
 どが掴みにくいからだ。
  勝手知ったるなんとやらで、あたしは右手の親指の感触だけを頼りにいくつかのスイッチを
 操作した。
  背後でハッチが閉まり、次にはただでさえ狭苦しいコクピットの内張り、エアクッションに
 空気が注入されて膨らみ、あたしの身体にあわせてしっかりと包み込んだ。
  暑苦しいが、仕方がない。このおかげでしっかりと身体が保持される上、これは人造強化服
 の重要な操縦装置となるのだ。
  なにしろ人型の機体を思うさま操るのである、とても両手両足の操作だけではおいつかない。
 だからこのエアクッションには感圧センサーと操縦者の神経伝達微電流を感知するセンサーが
 仕込まれていて、逐一操縦者の動きを拾っては機体が反応する仕掛けになっているのだ。
  とはいえ、完全なモーショントレーサーではない。操縦者はコクピットに押し込まれている
 のだから、どたばたと動き回るわけにはいかないのは自明の理だ。
  実はこの点が、人造強化服が普及しない最たる原因であった。
  極めて感覚的とはいえ僅かな筋肉の動きだけで、そしてこう動かしたいのだという意識的な
 伝達を行わなければ、人造強化服はまったく操縦を受け付けてはくれないのだ。下手をすると
 立ちあがらせることはもとより、まるで反応を示さないことすらある。人工筋肉製造上の条件、
 機体各部のバランス、おまけに操縦者の体調によっても反応はまちまちになってくる。つまり、
 こちらの機体を操れるからといって、あちらの機体も操れるとは限らないわけだ。それどころ
 か修理のために部品を換えたとか、操縦者の動作が怪我などの理由によって僅かに変わっただ
 けでも影響が出てくることも、まま、ある。誰にでも動かせるわけではないし、機体との相性
 問題もあるのだから、これはもう、我侭で気まぐれな恋人よりも始末が悪い。普及しないわけ
 だ。

 

  2.

 「アズサ」
  耳元のレシーバーからルットの声が流れた。
 「ほんとにやるの?」
 「やるわよ。なんか文句あんの?」
 「機械化機動隊を壊滅させちゃうような相手だよ? わたしは止めたほうがいいと思うなあ」
 「うっさい! さっさと展開してよ!」
  大声で怒鳴った。きっとルットのレシーバーには割れ鐘の音色が届いただろう。あのやろう、
 喋ってる合間にぺちゃぺちゃ音をさせてた。きっと最後のハンバーガーを食べてるんだろう。
  返事は無線ではなくて光で届いた。
  コンテナの天井と後部が、ぱっくりと割れたのだ。
  真昼の陽光がコンテナ内部を満たすのと同時に、あたしはちょい、と脚の筋肉を動かした。
  ずむ、とスムーズな加速度が加わり、ペリスコープの視界が四メートルプラスコンテナの床
 の高さにまで上昇する。
  首の筋肉を動かすと、思ったとおりに翠刃の頭が左右に振られ、警官隊、お仲間、そして野
 次馬が何事かとこちらを注視している様子が窺えた。
  うむ、今日も翠刃はあたしのいうことを良くきいてくれる。相性ばっちりの操縦者と人造強
 化服は、まさに相思相愛の恋人同士。本物の恋人もすごおく欲しいけど、なに、彼女のために
 凶悪犯と戦ってくれる男が、一体どれほどいるというのか。負け惜しみじゃないぞ。
  さて、ここからはスピード勝負だ。いくら麻痺状態にあるとはいえ、商売敵が抜け駆けする
 のを黙って見ているようでは、臨時契約協力者としてメシを食ってはいけないのだ。あたしの
 動向に気付いた連中が、我も我もと殺到するまえに、さっさと犯人を確保しなければならない。
 いままで大人しく待機していたのが不思議なくらいなのだ。ついさっきまでのあたしがその一
 員となっていたのは、独断先行は御法度という、チームを組むにあたってのルットとの約束を
 遵守していたからだけれど、もう充分誠意は見せただろう。ルットだってコンテナを展開させ
 たのだから、まあ、そのへんは理解してくれているはずだ。確認が取れないのだからそう思う
 しかない。コンテナが開いた以上、もうルットとの交信は出来ないのだ。先ほどのやりとりは
 翠刃に接続してあった機内通信用コードの賜物だ。当然、翠刃が立ち上がった際に接続は解除
 されている。個人無線の使用は規制が厳しくて、あたしらは装備していない。
  あたしは翠刃をコンテナから飛び降りさせると、そのまま一目散に銀行目指して突っ走らせ
 た。
  瞬く間に銀行の玄関に到達する。構わずに既に破壊されている自動ドアに頭から突っ込んだ。
  なんせ大手中の大手と謳われている大銀行だ。無駄にでかい開口部とその奥に続く二階分の
 吹き抜けロビーは、難なく全高四メートル強の翠刃を呑み込んだ。そのへんは現着と同時に確
 認していたことでもあり、ぬかりはない。それに四メートルといっても、これでも翠刃は人造
 強化服としては極端に小型なのだ。他機種では六メートルなんてのがザラである。尤もそのた
 めに搭乗出来るパイロットの体格が著しく規制され、翠刃の原型となった機種は三年前、販売
 開始から僅か半年後に生産打ち切りの憂目にあっているんだけど。
  ロビーには光が溢れていた。照明だけではない。窓からの陽光が燦々としている。
  が、実はこの場に飛び込むまで、あたしも警官隊も、内部の様子は皆目見当がついていなか
 った。偏光性を持たせた窓が、まるっきりそこを覗かせてはくれなかったのと、窓自体が高い
 位置に設置されているからだ。
  そこは酷い有様――とは程遠く整然としていた。どこにも破壊された跡はなく、ソファもテ
 ーブルもカウンターも、鉢植えの観葉植物すらエアコンの微風にそよいでいた。これだけ見た
 ら単なる客のいない銀行だ。
  しかし油断はしない。この銀行はL字型の造りになっていて、六個の生首が飛び出してきた
 窓は丁度その角にあたる部分に設置されているのだ。だから犯人は、こちらではなくて、角を
 曲がった向こう側にいるはずだ。
  後を追ってきた者がいないかとちらと振り向くと、あらら、なんと警官隊とお仲間が小競り
 合いを演じていた。さもありなん。犯人を奪い合って臨時契約協力者同士が乱闘騒ぎを起こし、
 当初の被害が倍加してしまったなんて事例、山ほどある。警官隊としては後続者を止めること
 が、現在最も優先された職務になったわけだ。まあ、なんにしてもあたしとしては助かる。
  ロビーを走り抜けて角を曲がった瞬間。
  案の定、やっと犯罪現場らしい眺めが視界に入った。
  まず目についたのは、床に広がる夥しい赤。
  その中にぽつぽつと転がっているのは、引き千切られたような痕跡を示す人間の手足だ。
  視線を返せば原型を留めた死体もみられる。無残に頭を叩き潰されているのは、どうやら女
 子職員らしい。人質になっていた人々だろう。どうやら三人分のパーツが存在している。意外
 に人質の数が少なかったのは市民に対する犯罪教育が行き届いている結果だ。不審人物に対し
 て誰何を行う警備ロボットが打ち倒された瞬間、客も職員もあっという間に逃げ出したに違い
 ない。事実上警備ロボットが最後の砦なのだと、誰もが理解しているのだ。
  その奥に、頭のない機械化機動隊の強化服が六体認められた。倒れ伏しているものもあるが、
 突っ立ったままのものもある。頭がないこと以外に破壊の跡は見られず、なんとなく強化服の
 ショールームを思わせる風景だ。
  あたしはその隙間を縫い、一番突き当たりにある豪華な応接セットを目指した。ここに至る
 まで人影はなく、犯人がいるとしたらそこしかないのだ。
  と、集音マイクに湿っぽい音が微かに入ってきた。
  あう。
  どきりとして、ほっぺが赤くなるのがわかった。
  なんというのか、その、これは間違いなく女性の喘ぎ声だ。
  何が起きているのかを理解したあたしは、次には音の正体を捉えていた。
  目指していたソファの背から、ぬうっとなまめかしい脚が二本、天井に向かって突き出され
 たのだ。黒いエナメルの靴が片足の先に引っ掛かっている。銀行の女子職員用のそれだ。
  見れば、その間で懸命に腰を振っている男がいる。
  なんて野郎だ。
  銀行強盗の余禄とばかりに、とんでもないことをしでかしている。
 「う~~~っ!」
  あたしは唸った。
  純情可憐な乙女として、複雑な思いにとらわれてしまう。
  ええい、えっちなことするひとなんかだいっきらいだ!
  胸の中で宣言して、左手の親指を僅かに動かした。
  スイッチ操作により、翠刃に装備していたタンクから、無色透明無味無臭の麻酔ガスが勢い
 良く噴出した。強力なガスだ、ひと嗅ぎしたら瞬時に意識を失い、三日は目を覚まさない。犯
 人をふん捕まえるには、さっさと無力化してしまうのが最も効果的である。
  警察も当然このガスは装備しているが、今回は使用していない。銀行の窓に防弾能力があっ
 たためにガス弾による貫通が不可能だったのと、人道的見地によるものだろう。
  それというのもこのガス、ただ眠らせるだけなら問題はないのだが、なにしろ後遺症が酷い。
 半年は頭痛が続く上、悪くすると失明や記憶傷害、そして皮肉なことに不眠症といった様々な
 副作用が目白押しなのだ。だから警察としては、犯人はともかく人質にまで危害を及ぼす手段
 は採りたくなかったのだろう。
  あたし?
  だってあたしは警察じゃないもん。
  それに人質にしたって死ぬよりはマシだろうし、強姦されるよりもマシでしょう。
 「き、気持ちいい!」
  色っぽい声をマイクが拾った。
  前言撤回。ただし、これで良心の呵責は完全に消え去った。
  けしからん行為に及んでいる犯人までの距離は、凡そ八メートル。無音行動に関しては強化
 服の比ではない人造強化服を、細心の注意でここまで運んできたあたしだ。おまけにあそこま
 で熱中していては気付かれる心遣いは無用とわかっていても、そこまでガスの到達する数秒間
 の、なんと緊張感に満ちたことであるか――。
  ふいにあたしの心臓を刺激していた嬌声が止んだ。
  ひくひくと蠢いていた生脚が、くったりとソファの背もたれに引っかかった。
  計算通り。
  ほくほくと近寄ろうとしたあたしは、しかしぎょっとして立ちすくんだ。
  なんと、犯人は意識を失った身体を相手に、未だ腰を振りつづけているではないか。
  そんなバカな、である。そりゃあ、あらゆる、とはいかないまでも、特定のガスや細菌を無
 力化させる薬剤や、特殊フィルターでそれらを濾してしまうカスタマイズ技術もあるにはある
 けど、それには大分ご面相が変化するほどの大掛かりな改造が必要で、後姿しか見えないけれ
 ど犯人にその兆候は見られない。そもそもあたしの使ったガスは最新式で、未だに旧式然とし
 た専用ガスマスクを使う意外は、防ぐ手立てはないのである。
  あの男、息をしてないのかも。
  なんて思ったけど、相変わらず男の方からはあへあへと下品で卑猥な息遣いが聞こえてくる
 のだ。こりゃあ、只事ではない。
  突然、犯人の息遣いと破廉恥な動きが停止した。
  僅かに送れて、ガスが効力を発揮したというわけではない。件のガスは空気に触れると、一
 分もしないうちに分解されて無力化するという、欠点と長所を兼ね揃えているのだ。リミット
 はあたしが茫としているうちに過ぎ去っている。
  犯人は何度か意識を失った女性に腰を突き入れ、まるで反応がないとしるや不満気に呻いて
 ゆっくりと半身を起こした。
  そのまま、やはりゆっくりと振り返る。
  あたしは己が過ごした無意味な時間を悔やんだが、もう遅かった。気付かれた以上は人質の
 命に関わるような行動は採れない。なにしろ警察の命令無視での単独突入だ。下手をしたらあ
 たしに人質の命を危険に曝したとの逮捕状が出るおそれだってある。
 「邪魔したな…?」
  犯人がヒュ~ドロドロというようなBGMを背負いそうな声音で言った。
  あら、ちょっといい男。
  線の細い軟弱さはあるものの、気取らない髪型といい、整った甘いマスクといい、どこぞの
 文学青年といった趣がある。
  ただ惜しむらくは、その眼に浮かぶ廃人の色だ。完全に腐っている。どろりとして濁ったそ
 こからは、溝泥の匂いが漂ってきそうである。
 「こっち見ないでよ」
  あたしは翠刃のマイクを通して、思わずそう言ってしまった。なんだか見つめられていると、
 病気になりそうな気が本気でしたのだ。
 「邪魔したな…。折角彼女とセックス出来たのに…。邪魔したな…?」
 「ちょっとちょっと!」
  ゆらあり、と犯人が立ち上がった。
  バカバカ、あんた下半身裸じゃないのさ!?
  ひく、と息を呑んだあたしを余所に、ついに犯人はソファの背もたれを越えて床に立ってし
 まった。
  きゅん、とあたしのおなかの中が収縮した。
  背を丸めてふらふらと揺れている男。仕立ての良さそうな白いシャツの下。
  そこはまだ濡れ光っている上に、天を仰いでひくついているのだ。
  は、はじめて見た。
  でも、思ってたよりはおっきくない。
 「バ、バカッ! ヘンタイッ! 乙女になんてモン見せんのよッ!?」
  きゃあ、とばかりに、あたしは両手で顔を覆ってかわいらしく蹲ってしまう。もちろん実際
 にそうしているのは、あたしがカッコイイと常に自慢に思っている人造強化服、翠刃である。
 「ずっと好きだった…。意を決して付き合ってくれといったら断られた…。だから…。こうや
 って一所懸命に愛しに来たのに…。よくも邪魔したな…?」
 「し、知ったこっちゃないわ!」
  と、叫んで、あたしははたと跳ね上がった。
 「――って、あんた、まさかそのひとが目当てで銀行に!?」
  恥ずかしさなんてあっという間に消えた。
  こいつ、銀行強盗じゃなくて、単なる婦女暴行犯!
  へなへなと力が抜ける。
  そりゃそうよ、婦女暴行なんてケチな犯罪者、捕まえたところでスズメのナミダ程度の報奨
 金しか出やしない。
  臨時契約協力者に対して支払われる報奨金は、あくまで犯人が最初に犯した罪にのみ適応さ
 れる。万引の犯人を捕らえようとしたら逃亡、自棄になった犯人がその途中で通行人をばった
 ばったと殺してしまったなんて犯罪が後を断たない現状で、そのすべての罪に対して報奨金制
 度を適用してしまったら、国家予算が組まれているとはいえ、いくらお金があっても政府はき
 ゅうきゅうになってしまう。実際このような明確なガイドラインが存在しなかったころ、ゴロ
 ツキ紛いの臨時契約協力者が意識的に犯人を追い込み、犯罪を大きくしてから捕まえるなんて
 事例が発生したこともある。そんなことを防ぐ意味合いもあって、今期の制度が確立したのだ。
  今回の場合は、まあ犯人が警備ロボットを破壊しているとはいえ、おそらくそれは強姦をす
 る上で邪魔になったから行ったのであって、人質と目されていた人々が殺害されたのもそれに
 類するものであるとの沙汰が下るに違いない。この辺りは微妙なところであるが、最終的には
 警察の断定に従うしかないのだ。
  例えば、犯人が強姦を目的に家内に侵入、たまたま居合わせた家人を殺害してしまった場合、
 警察は犯人を捕らえた臨時契約協力者に対しては、あくまで婦女暴行未遂犯を捕らえたとの評
 価しかしてくれない。逆に殺人が目的で婦女暴行を犯した場合、今度は目的が重罪であっても
 実際には婦女暴行犯なわけだからと、そちらの方向で断定を下してしまうのだ。汚いやり口で
 はあるが、いやならやめろ、警察としては市民が自衛する為に犯罪者を見逃すことに対しては、
 なんらの杞憂も抱いてはいない、という一言で泣き寝入りになってしまう。案外ワリにあわな
 い商売なのだよ。
  しかしこいつはうまいテだ。ワリにはあわないとはいっても、うまく大罪人を捕まえられた
 なら、普通のサラリーマンが一年掛かっても手に出来ないような大金が転がり込む。だから一
 攫千金を望む臨時契約協力者は後を断たないし、彼らが増えれば警察の仕事も楽になる。もし
 臨時契約協力者が負傷や死亡などの憂目にあっても、それはあくまで自己責任であるし、警察、
 ひいては国家としても保証などの問題が発生せずに済むわけだ。結果的に大々的に警察機構を
 強化するよりは安上がりになる。ま、警察のいうことを大人しく聞き分ける人間ばかりではな
 いのだから、彼らも当初の予定のようにのんびりとはしていられないだろうけど。
  あたしは脱力した上に臍を噛んだ。報奨金が莫大だと思いこそすれば、機械化機動隊を壊滅
 させるような輩と対決してやろうと突入を決意したのだ。それがこの有様だ。ワリにあわない
 ワリにあわないといいながら、これではワリにあわないにも程があろうというものだ。世の中
 なんにせよ程度が肝心だ。あたしゃ、程度を弁えないヤツが一番キライなのだ。だから自己嫌
 悪も一入なのだった。
  そんなあたしの心情を知りもせず、犯人は尚もぶつぶつと怨恨の長唄を披露し続けている。
  曰く、ひとの恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んじまえ。
  曰く、おまえのようなアバズレが、美しい彼女を眠らせたことが気に入らない。
  曰く、横恋慕などは最低の感情であり、哲学的に斯様な状況が肯定された試しはない。
 「うっさい!」
  あたしは激怒した。怒髪天を衝いた。
 「黙ってきいてりゃべらべらべらべら! あたしの顔も知らないクセに勝手なこと抜かしてか
 らに! 強姦魔が都合のいいこというんじゃないわよ! あんたの想人なんかより、あたしの
 方が百倍も愛らしくて千倍も理知的で万倍も気立てがいいんだかんねッ! 大体いつあたしが
 あんたに横恋慕なんかした!?」
  一気にまくし立てた。
  自分でいうのもなんだが正論だ。
  正論だが、それが犯人の気に障ったらしい。
 「いったな…?」
 「ああいったわよ! なんか文句あんの!?」
 「殺してやる…」
 「やれるもんならやってみりゃいいわ!」
  あたしは翠刃を立ち上がらせて臨戦態勢を整えた。
  ぐぐ、とバネのように背中を丸めた犯人が、次の瞬間文字通りに跳ね上がった。
  あたしの言葉じゃないとは思うが、ひとを見かけで判断していては、この稼業、命がいくつ
 あっても足りやしない。犯人が人間を引き千切り、機械化機動隊を手もなく壊滅させたという
 事実は、どうしても覆せないのだ。
  だから油断はしていなかった。
  していなかったが――。
  げげ。
  つい一歩退いてしまった。
  跳ね上がった犯人が飛び蹴りをかましてきたときの対処方は考慮していた。腕を取りに来た
 ときも、フェイントを仕掛けてきたときの対処法もだ。なんにせよ、うまくいなして絡め獲り、
 関節を極めて捕縛するつもりでいた。
  ところが犯人ときたら、飛び跳ねたのはいいが、それは意識的というにはあまりにも程遠い
 有様であったのだ。バランスを取るでもなく、攻撃を仕掛けるでもなく、ただこちらに向かっ
 て高速飛来してきただけ。
  しかもその態勢たるやまことに滅茶苦茶で、手足がてんでバラバラの方向にネジくれている
 ときた。弾丸列車に刎ねられた人間が、意識を失ったまますっとんできたようなもんだ。
  そんな気味の悪い物体がペリスコープの視界一杯に飛び込んできてみなさいよ。怖気が走る
 ったらありゃしないんだから。
  どかん、と衝撃がきて、翠刃がたたらを踏んでよろめいた。
  姿勢を立て直しながら、なんとか視界の隅に犯人を捉えると、こっちの胸に激突したヤツは、
 またしても刎ねられたような格好で妙な方向に吹っ飛び、どってんがらりと派手に床面を転が
 っていた。
  いまのうちに、とダッシュをかけようとしたあたしは、またしても度肝を抜かれた。
  転がりながらも、すく、と立ちあがった犯人は、しかし両手両足を床についていた。
  そのままクモかムカデが這うかの如く、もの凄い勢いで滑り寄ってくる。
  な、なんて器用な。
  感心している場合でもなく、あたしは足元に飛び込んできた犯人を踏み潰すべく翠刃を操っ
 た。瞬間、殺しちゃったかなと思ったが、あたしは虫が大嫌いなのだから致仕方がないと考え
 直した。
  硬い床面の衝撃が伝わってきた。
  直角移動で翠刃の足をかわした犯人が、左手横合いから突進してくる。
  振り向きざまに蹴飛ばすと、ぴょんと跳ね上がった。
  右手を突き出して撃墜しようとした。
  その腕に絡みつくように身体を預け、犯人はそこを支点にくるりと回転しながら、翠刃の後
 頭部に蹴りを送り込んできた。
  ぼぐん、と鈍い音がして、あたしは翠刃諸共前方に倒れた。
  咄嗟に体を入れ替えてあお向けになると、真上から犯人が降ってきた。
  大昔に流行ったというブレイクダンスの要領で、あたしは背面のまま下半身を捻り上げ、逆
 立ちをしながら強槍のような蹴りを垂直に突き上げた。
  いかなる体技か、犯人は空中で落下軌道を変更させると、ささっとばかりに距離を置いた。
  その間に立ち上がるあたし。
  飛び込む犯人、蹴飛ばすあたし。
  避ける犯人、追うあたし。
  実におぞましい動きで跳ねまわる犯人をどうしても捉えられない。おまけに時折こちらにヒ
 ットする攻撃力たるや、流石の翠刃といえども無視出来ないほどに強力だ。事実反応速度が鈍
 くなってきている。人工筋肉は駆動する際に熱を発し、それが溜まりすぎると出力が低下して
 しまう。そのために冷却液を送るパイプが血管の如く張り巡らされているのだが、軟質の輸送
 管が攻撃の圧縮力に変形してしまい、冷却液の流れが滞り始めているのだ。
  このままじゃ、まずい。
  さりとて跳ね回る犯人は絶好調のようで、まるでゴムボールを叩きつけたようにあちこち変
 幻自在である。

 

  3.

  ううむ。
  むかし、どこぞのコメディアニメーションでこんなの観たことがあるよ。
  ただし、それが現実となると悪夢以外の何物でもない。
  大体、これはちょっとヘンだ。犯人がカスタマーであることは確実だけど、あれほど華奢な
 肉体に外見上の変化を与えずに、これだけの機動力、そして攻撃力を備えされるカスタム技術
 なんて、世界のどこを探したってあるはずがない。
  ないはずのものが、ある。これを妙といわずしてなんといったものか。これはもう、宇宙的
 法則に対する明確な冒涜である。
 「うあ!?」
  思わず悲鳴を上げた。
  突撃してきた犯人が翠刃の片足をひっつかみながら、股間を抜けて後方へと回り込んだので
 ある。
  たまらずに前倒しになる。
  背中に犯人が馬乗りになった。
  レディに対してなんたる仕打ち。
  あたしは意を決して両手を背中に回した。撥ね退けるのは容易いだろうが、これほど犯人と
 密着出来たチャンスをふいにすることはない。
  両手が犯人の身体に触れた。感覚でそうと知れる。
  手元のスイッチを素早く操り、あたしは奥の手を使った。
  びくん、とした手応えがあった。
  翠刃の両手には電極が取り付けられている。そこから犯人に電撃をお見舞いしてやったのだ。
 規制に則り防犯グッズ程度の電圧しか流せないが、それでも心臓の弱い人間ならいちころ、プ
 ロレスラーだってしばらくは動けなくするくらいのパワーはある。
  ざまをみ。
  思った途端、頭の上から小気味のいい硬質な音と、虫唾の走る鈍い響きが伝わってきた。
  同時に、ペリスコープの視界が千々に砕け、世界は万華鏡の中に閉じ込められた。
  驚愕した。
  とりあえず本日の最高レベルで驚愕した。
  電撃すら効果がなかったのだと、あたしは察した。
  翠刃の頚部が捻じ切られたのだ。
  ぞっとした。
  翠刃の制御装置一式は頭部に組み込まれている。首をへし折られたということは、人間なら
 重大な損傷を蒙ったということであり、それはそのまま翠刃にも適応されてしまうのだ。
  あたしは最大限に焦ってコントロールを試みたが、翠刃は不規則で断続的な痙攣を繰り返す
 だけで、完全にあたしの手から離れてしまっていた。
  どうしよう。
  思う間もなかった。
  強烈なショックがきて、あたしはもみくちゃにされた。
  納まると、またしても衝撃、そしてもみくちゃ。
  犯人が翠刃を蹴り飛ばしては痛めつけているのだ。改めての感想だけど、なんて破天荒なパ
 ワー。いや、これはもう無節操なパワーだ。
  このままじゃ、遠からずあたしはバターになってしまう。食べたらきっとおいしいぞ。
  あたしは迷った。翠刃から脱出するべきか否か。
  すぐに決断した。
  衝撃がきて、転がって、止まるか止まらないかというタイミングで、ハッチを開いて慌てて
 機外に転がり出た。
  顔を上げると、犯人はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる途中だった。癪に障ることにはア
 ッチの方は未だに天を仰いでいる。勝ち誇っているようだが、持ち主の方は相変わらずどろり
 とした眼をしていて、まるっきり何を考えているのかわからない。
  素手では勝ち目なんて絶対にありっこない。
  即座に踵を反して遁走を謀ったが、そうは問屋が卸さなかった。
  頭上を空気の渦が通過すると、くるりと軽業師のように、犯人が目の前に降り立った。
  急ブレーキ。
  間に合わない。
  ぼふ、とあたしは腐れ優男の胸に衝突した。
  がっきとばかりに腕を掴まれた。
 「ひいい!?」
  情けなくもあたしは悲鳴を上げた。このまま腕を引き千切られると思ったからだ。
  にやあり。
  犯人が笑った。
  ぐう、気味が悪い。
  と、驚いたことに犯人はあたしの身体を抱きすくめたのである。
  うう、ロマンチックな抱擁を夢見ていた少女の夢は、このような初体験で無残にも打ち砕か
 れてしまったのだ。
  荒い息を漏らしながら、犯人は妙な動きで身体をゆする。
  あたしは、薄手のタンクトップにショートパンツという格好だ。
  そのおなかの部分に、なにやらゴムのような感触。
  ぼ、と頭に血が上った。
 「ちょ、ちょっとアンタ――」
  こいつがなにを考えているのか、わかりたくもないがわかってしまった。どうやら眠れる想
 人の肩代わりをあたしがするハメになってしまったらしい。
  冗談じゃない!
  必死にもがく。
 「ああ、やわらかくてきもちいいなあ…」
  とろけた声が漏れた。
  どうやらあたしの動きがその部分を刺激しているらしい。
 「や、やめなさいよこの節操なし! あ、あんたが好きなのはあたしじゃないでしょ!?」
 「女はいいなあ…」
 「え、えっち! バカ! 色魔!」
  抵抗むなしく、犯人はあたしを組み敷いた。
  後頭部を打ってしまった。
  いったあ、と泣いている閑もなく、あたしは両手を床に張りつけられた。せめて脚だけは閉
 じようとしたけれど、既にそこには犯人の身体が入り込んでいる。
 「あやっ!?」
  股間に異物感。
  見れば、犯人がぐいぐいと腰を突き出している。
  あたし、まだ服を着たままだ。
  なのに構わずにヘンなモノを押し付けてくる。
  もう恥ずかしいやら恐ろしいやらで、わけがわからない。
  本気で泣いちゃいそう。
  どかん、と暴力的で破壊的な衝撃が、あたしの身体を吹き飛ばした。
  たぶん、五メートルは吹っ飛んだね。
  頭やら背中やらを床に叩きつけられて、息が詰まった。まさに踏んだり蹴ったり。
 「あいたたた…」
  涙に滲む視界で顔を上げると。
  なんとそこにはあのドリルゴリラ男の姿があった。彼がもつれているあたしと犯人に突撃を
 かまし、その勢いをかって犯人を押さえつけているのだ。犯人は意識を失ったのか、ぴくりと
 もしない。あんなヤツでも意識を失うのかと、本気で感心してしまう。
  ドリルゴリラがこっちを見た。
  してやったりの台詞は聞かれなかった。
 「大丈夫かい?」
  意外にやさしい声音で彼は言った。
 「え、ええ」
  頭をなでなで立ち上がる。
 「災難だったなあ」
 「あ、ありがとう」
 「なに。警官隊を突破するのに時間食っちまってよ、もっと早くこれたらよかったんだが」
  あたしは感謝した。
  この際見てくれは関係ない。
  あなたはいまのところトップランクであたしのヒーロー。
  ほっぺにちゅ、くらいしてあげてもいい。
  大した報奨金にもならないけど、横取りされたなんて文句も言わない。
  それからドリルゴリラはふいに悲しそうな顔をすると、
 「すまんな」
  とあたしに頭を下げたのである。
  なにに対しての謝罪なのか、寸刻理解不能だった。
 「大丈夫か、兄貴」
  ドリルゴリラは押さえつけた犯人に対し、そっと問い掛けた。
  跳びあがった。
  そりゃあもう、ニ十センチは跳びあがった。
  ぽかんとするあたしに、ドリルゴリラは言った。
 「こんなことする兄貴じゃなかったんだ。突然こんなふうになっちまった。カスタマイズも受
 けてないのに、わけがわからん」
  あたしはぱくぱくと酸欠の金魚みたいな有様で、
 「あ、あんたたち兄弟なの?」
 「そうだ。おれも驚いたよ。銀行強盗を捕まえようと思ったら、なんと犯人は兄貴ときたもん
 だ。おれもついさっき警察の手元に届いた防犯カメラのスチールを覗いて知ったんだ。頭がよ
 くてよ、やさしくて大人しい兄貴だったのに…」
 「それじゃ、最近まではなんとも?」
 「ああ。最近どころか昨日までは普通の兄貴だった。ばあちゃんの誕生会、親戚一同でやって
 たんだぜ?」
  むう、インテリ優男とドリルゴリラの兄弟を擁する親戚一同とは、一体どんな一族なのだろ
 うか。
 「それなのに、たった半日でこんなことに…。こいつあ、絶対になにかある」
  あたしはアホな考えを振り払って頷いた。ドリルゴリラの言葉を信じるなら、カスタマイズ
 も受けていない人間が、まさに半日たらずで化物じみた能力を身につけたことになるのだ。い
 や、万が一カスタマイズを受けていたとしても、何度も言うように、こんな技術は世界のどこ
 にも存在していない。
  これは、なにかある。
  なにかあるが。
  そのなにかがなにかとなると、皆目見当がつかない。
  つまりはお手上げだ。ついでに万歳三唱したいくらいに。
 「兄貴!?」
  緊張した声に、あたしははっとした。
  ぴくりと身じろぎをして意識を取り戻したらしい犯人が、そのままぐぐっとばかりに半身を
 起こし始めたのだ。
 「気をつけて、半端じゃないわよ!」
  注意を喚起したが、ドリルゴリラはそれどころではないようだった。
  やせっぽちの兄が、倍以上も体重のある弟を背中に乗せたまま、じわじわと起き上がりつつ
 ある。尋常ではないパワーにドリルゴリラも気付いたようで、青筋を立てて押さえつけている
 のだが効果はない。なんとも珍妙な眺めだった。
 「わわわっ!?」
  ついに背中の邪魔者を撥ね退け、犯人は完全に自由を得た。あれだけのパワーを出しながら、
 しかし立ち姿は風にたなびく煙のように頼りないのが不気味だ。
 「邪魔をするな…」
  ねっとりとした言葉を漏らして、兄が弟を見下ろした。
 「兄貴、よせ!」
  今度は弟が兄を見下ろした。二人とも立ち上がると、身長差は歴然だ。
  ドリルゴリラの声には一層の緊張感が漲っている。目の前に立つ人物がかつての兄とは別人
 であると認識したのだろう。それでも宥めるような響きがあるのは、やはり兄弟に対する信頼
 感が残っている証拠だ。
  それが甘かった。
  跳躍の素振りすら見せずに、犯人は忽然とドリルゴリラの眼前に飛び込んでいた。
  終わった、と思ったが。
  おお、とあたしは感嘆の吐息を漏らした。
  巨体に見合わない素早さでドリルゴリラは身を捻り、見事に突撃をやり過ごしたのである。
 「よせ、兄貴を傷つけたくない!」
  悲壮な表情で言いながらも、ドリルゴリラの左腕は猛然と回転を始めていた。生体モーター
 の駆動力は、あの腕の太さから見ても相当なものだ。恐ろしげなドリルは見た目に相応しい破
 壊力を秘めているに違いない。
  しかしあたしはちっとも安心出来なかった。
  ぴうん、と空気が鳴った。
  ごん、と音がしてドリルが落ち、回転の余力によって大理石の床面を掘り返しながら、狂気
 のステップを踏んで転がりまわる。
 「あに――」
  ドリルゴリラは最後まで言えなかった。左腕の付け根が切断されるのに少し遅れて、その頭
 の中ほどから鮮血が迸ったと見るや、見事な輪切りとなって彼は崩れ落ちたのである。
  あたしは見ていた。
  弟を惨殺した兄の右腕は、見事な骨格を露呈させている。その周囲にあったはずの筋肉は細
 長い繊維と化して、無数の触手のようにぶんぶんと振りまわされているのだ。ドリルゴリラの
 命を奪ったのはそのうちの一本で、恐るべき切れ味を備えていることは疑いようもない。
  実は、ドリルゴリラに向けられた必殺の一振りと同時に、あたしの元へも伸張した触手が放
 たれていたのである。
  が、あたしは間一髪のところでそれをかわしていた。目にも留まらぬ勢いで犯人の筋肉がほ
 ぐれ始めた瞬間に、既に態勢は整えてあった。
  生首と化した機械化機動隊の強化服。その断面は、恐ろしく滑らかであった。決して力任せ
 ではないそれを見たときから、用心していたのだ。
  しかし、なにかあるとは思っていたが、まさかこんな形でとは正直思っていなかった。
  最早、急変を遂げた男の謎も、存在しない技術レベルの謎も、あたしの頭の中には残ってい
 なかった。
  どうやって生き残るか。それだけだ。
  初回攻撃こそかわせたが、それは殆ど偶然といってもいいくらいで、あんな攻撃、そうそう
 何度も防げる自信はまるでない。
  あたしは走った。
  とにかく走った。
  耳元に甲高い音波が届いた。
  脚の筋肉が捻れるほどの急旋回。
  ぴしりと痛みが走って、タンクトップの胸が裂けた。乳房に生ぬるい感覚が生まれる。
  続けざまに触手が襲いかかってきた。一体どのくらい伸びるのか見当もつかない。
  あたしは横っ飛びにジャンプ、着地した位置にあったカウンター、その上にあった小さな鉢
 植えをひっつかむと、思いっきり犯人に投げつけた。
  それは空中で撃墜され、二つの塊になって落下した。
  ひしり、と足元の大理石が裂けた。
  反射的に反対方向へ踏み出した足元で、また大理石が裂けた。
  あいつ、あたしを牽制している。どうやらあたしを殺すまえに、ひと汗かこうという欲望が
 まだ残っているらしい。
  あたしは身動き出来ない。
  犯人はにたにたと笑いながら、ふらふらと近づいてくる。
  こりゃ、まいった。
  いっそのこと舌でも噛み切ってやろうか。
  するする、と人影が動いた。
  犯人の後ろで大きく振り上げられた両手には、憐れなドリルゴリラのドリルが携えられてい
 た。
  一気に振り下ろされた。
  鈍い音がして、犯人の頭が潰れた。
  びくん、と停止した犯人が、首だけを回して振り向いた。
 「さ、最高だよ…」
  言って、犯人は腰を痙攣させた。
  白い液体が放物線を描いて何度も飛び出し、床に弾ける。
  その上に犯人は昏倒した。
  見下ろしながら、
 「粗チン!」
  と吐き捨てたのは、下半身剥き出しの若い女だった。
  あたしはもう驚かなかった。
  感覚が麻痺していた。
 「吸わなかったの?」
  問い掛けた声は、我ながら抜け殻のようだった。
 「あれ、あなたの仕業? 頭ががんがんするわ。ガス?」
 「吸ったのね」
  三日は目覚めない麻酔ガス。まだあれから十五分と経ってない。
  あたしはずるずると尻餅をついた。
 「あらやだ、わたしったらすっごい力持ち」
  女は思い出したようにドリルを投げ捨てた。重い響きがした。
  世の中どうかしている、と長嘆息を漏らすと、微かな気配が背筋をくすぐった。
  遅れ馳せながらの警官隊の突入だ。足音なんか立てやしない。三十名に近い完全武装の一団
 が声もなく、疾風の如く散開しながら詰め寄ってきた。
  彼らは一目で事態が終結していることを悟った。
  それからはもう、口にするのもいやになるほどもみくちゃにされた。今日はとことんもみく
 ちゃにされる日だ。
  さんざん小突かれながら外に連れ出され、その場で命令違反の反則切符を切られた。罰金の
 ことは考えたくない。
  ついでに言えば報奨金のこともだ。
  あたしの手元には反則切符だけが残り、微々たるものといえど報奨金は乱暴な銀行職員であ
 る件の女性に支払われることになる。もともと防犯活動に寄与した者に感謝状と共に贈られた
 金一封が報奨金制度の原点である。だから正式に登録された臨時契約協力者ではなくとも、犯
 人を捕まえるなり無力化するなりした者には、誰であろうとそれを受け取る権利があるのだ。
  重い足取りで戻ったあたしを、ルットが憮然とした表情で迎えた。
  見れば大きな瞳に涙を滲ませ、ほっぺたは赤く腫れている。
  聞けば、警官隊とお仲間の小競り合いの最中、どさくさに紛れて警官にひっぱたかれたのだ
 という。
  なにもかもあたしが悪いとうじうじ文句を垂れるルットを適当に宥めつつ、あたしはうんざ
 りと天を仰いだ。

 

  4.

  冷水を目一杯浴びたあたしは、反動でかっかとほてる身体を鏡に映した。
  哀しくなったね。
  小さいけれどかたちのいいおっぱいには傷が走り、身体のあちこちには痣が出来ている。
  二十四歳、身長一五七センチ、体重適正。少々小柄だけれど美人で通っているこのあたし。
  そんなあたしの珠の肌が斯様に痛めつけられているのだ。
  長かった一日を思い返し、またしても長嘆息。
  警官隊につまみ出されてから、もうひと悶着あった。大破した翠刃を警察の手を借りてコン
 テナに積み込む際、とうとうルットが癇癪を起こしたのだ。報奨金は貰えない、罰金は課せら
 れる、おまけにほっぺたをひっぱたかれた上に、精魂込めて整備した翠刃は大破。きーっとば
 かりに地団駄を踏んで、それっきり口もきいてくれなくなった。
  ルットは元々孤児院で育った女の子だ。小さな弟分や妹分の世話に明け暮れていたのだから、
 我慢や聞分けに関しては、あたしなんか足元にも及ばないほどに、良い。それだけに一度癇癪
 玉を破裂させると、見事なまでの意思の力をもって、延々とヘソを曲げ続けるという特性を持
 っている。
  あたしがルットとチームを組んだのは、いまから三年前のことだ。出会った頃のルットは十
 七歳の、腰まで届くストレートの黒髪も美しい、大人しそうな文学少女といった雰囲気をもっ
 ていた。
  まあ、いまでもそれはかわっていないし、身長もほとんど変化はない。あたしよりちょっと
 小さな一五四センチ。体重は当然あたしより軽い。が、それはあくまで身長差によるものであ
 って、スレンダーな体型のためだという彼女の主張を、あたしは未だに認めていない。
  そのルット、生粋の日本人にしては珍しい名前だけど、これは名付け親が孤児院のシスター
 であり、彼女が外国人であるという理由からだそうだ。苗字は孤児院を開いた老神父のそれを
 受け継ぎ、碧川という。尤もその他の経歴をあたしは知らない。ルットがあまり話したがらな
 いからだ。
  ちなみにあたしの名前は鞍馬アズサ。苗字はともかくとして、アズサというのは女の子らし
 くて気に入っていた。
  ところがそんなあたしの心情は、十二歳のときに儚くも砕かれてしまった。何気なく名前の
 由来をママに訪ねたところ、衝撃の真実を明かされてしまったからだ。
  名前を考えたパパが、実は軍事マニアだというのである。
  あたしは当時軍事関係の知識なんてこれっぽっちもなかったけれど、パパが軍事マニアだな
 んてちっとも知らなかった。
  そのパパが、なんと百二十年以上も大昔の戦争の際、旧日本軍が行った無謀な体当たり攻撃、
 通称神風特攻のために編成された飛行隊につけられたという、梓特別攻撃隊からあたしの名前
 を拝借したのだというのだ。
  まったく、夢も希望もあったもんじゃない。楽天家のパパのこと、きっとアズサに別の意味
 合いなんて持たせてなかった違いない。一体あたしの将来になにを期待したのやら、我が親な
 がら呆れてモノも言えない。爆弾抱えて片道飛行なんて冗談じゃないよ。
  そういえば、いまの新日本軍にも梓飛行隊なんていう部隊があったっけ。なんとも縁起の悪
 い名前をつけたもんだけど、滅びの美学というのか男の浪漫というのか、旧軍、そして自衛隊
 時代を経ても、基本的に日本人の感覚というのはかわっていないらしい。
  まあそれはそれとして、まだ少女だったルットを口説き落としてあたしとチームを組んでも
 らったのにはわけがある。彼女が趣味で始めたという機械いじりの才能が、桁外れて優れてい
 たのが最たる理由だ。あたしがそれを知ったのはとある事件がきっかけだったんだけど、まあ
 そのへんのことは追々話すことにする。
  そんなわけで、ルットにヘソを曲げたままでいられたら、当然翠刃の修理なんて覚束ないの
 だ。事件のあった銀行はニュー千葉シティの中央部であり、あたしとルットのお家、公庫から
 借りたお金でなんとか購入した、三十年前の地震で倒壊したポートタワーとかいう建物の跡地
 に建てられた、東京湾を臨むレンガ造りの低価格住宅までの道程、あたしは装甲車の助手席か
 ら、宥め、すかし、おだて上げて、なんとか彼女の機嫌をなおすことに腐心したのである。
  その甲斐あって、ほとんどスラムと化した一画に帰りついたころには、なんとかルットの機
 嫌も立ちなおりの兆しを見せ始めていた。
  これ幸いとばかりに一階のハンガーに翠刃を運び込み、ふたりして破損部分の修理を完了し
 たころには、すっかり彼女の機嫌は元通りになっていた。なんのことはない、機嫌を悪くした
 ルットには中古のエンジンでもあてがっておけば、それが新品同様になるころには、すっかり
 その心も晴れやかになっているのだ。よっぽど機械いじりが好きらしい。
  ただ、それを理解するまでには相当苦労したこともまた事実。たしか最長で二週間は口をき
 いてくれなかったことがある。原因は、あたしが彼女が買ってきたプリンを黙って食べちゃっ
 たから。
  そんなこんなで今日は過ぎた。辺りもすっかり暗くなろうかというころ、どうしても汗を流
 したくなったあたしはシャワーを浴び、いまやっと一息ついたところだ。ここ三日はお湯が使
 えないこともあって濡れタオルで身体を拭くくらいだったけど、今日はなにせ、化物男に抱き
 つかれたり機械いじりをしたせいで、どうにも我慢出来なくなったのだ。が、水風呂というの
 も案外気持ちいい。
  新しい下着をつけてバスルームを出ると、なにやらダイニングキッチンのテーブルに着いて
 機械工学の専門誌を読んでいたルットが、物言いたげな顔であたしを見た。そんなはしたない
 格好でふらふらしないでよ、というところだろうが、あたしは一向に気にしない。
 「ごはん、どうしよっか?」
  開口一番そう言った。ハンバーガーをよっつも食べたルットと違って、あたしはお昼も食べ
 てないのだ。
  ルットはそれには応えず、
 「いまね、また花田さんに嫌味いわれちゃったんだよ」
  と雑誌を閉じた。
 「また?」
 「そう、また」
  あたしは舌を鳴らした。
  花田さんというのは、お隣に住んでいるオールドミスのおばさんだ。あたしたちがここに越
 して来る前から住んでいて、なにが気に入らないのか、事あるごとに文句や嫌味を言ってくる
 イヤなひとだ。
  始めはあたしたちが臨時契約協力者を生業としていることに対して危惧を抱いているのかと
 思ったけど、どうやらそうでもないらしいと知れるまで、そう時間はかからなかった。いまで
 は殆どの住人が消え去ったこの辺りにしつこく住み続けているのも、根本的に人嫌いが甚だし
 いからのようだ。折角人が減って己の天下が訪れたのに、そこにあたしたちが入り込んできた
 のが許せないらしい。
 「で、今回はなんだって?」
 「窓の外に破廉恥な下着を干されちゃこまるって」
 「ははあ、ルットのしましまぱんつか」
 「アズサのスケスケよ!」
 「あら、そ」
  冷蔵庫からスパークリングワインを取り出して、あたしはどっかりと椅子に腰掛けた。
 「でもさあ、一体それがあの人のどのへんに迷惑をかけたのかねえ?」
 「下着泥棒を刺激して、とばっちりをうけたらたまらないって」
  あたしは激しくむせかえった。
  ワインの飛沫がルットに掛かり、彼女はきゃあと悲鳴をあげる。
 「だ、だれがあんなオバハンのズロースなんて盗むってのよ!?」
 「知らないわよ」
  花田女史め、なかなかやるじゃないか。新機軸の因縁で、あたしは危うく窒息死するところ
 だったよ。
 「まあなんだ、今更あのひとのいうことに目くじら立てても始まんないよ。それよりごはんに
 しようよ、ごはん!」
  ワインの残りを流し込んで、あたしは宣言した。
  それから、ふたりで夕飯の支度に取りかかる。
  出来あがってテーブルに並べられた料理は、どうもちぐはぐであった。
  冷たいパスタとトマトサラダはともかくとして、その隣で湯気を立てているのは紛れもない
 お味噌汁だし、香ばしい煙をうっすらと上げているのは、見間違いようのないアジの干物であ
 る。当然白いごはんも茶碗に盛られている。
  洋食がルット、和食があたしの作によるものだ。それぞれの得意分野でこうなってしまう。
  尤も、いまさらそんなことを気にするふたりでもない。
 「いただきまーす」
  と唱和して、早速食事に取りかかった。
 「お味噌汁、ちょっとからいよ」
 「汗かいたからそのくらいが丁度いいの。このトマト、ちょっと古くない?」
 「冷蔵庫の中にあったから使ったの。もったいないから」
  などと言い合いながら、たちまちぺろりと平らげてしまった。七割方はルットの戦果だ。こ
 の娘はほんとによく食べる。どこに仕舞い込んでどう消費しているのかの謎を、あたしは現在
 必死になって探ろうとしている。
  夕食を終えたあたしたちは、居間にひっくりかえって、ごろごろとすることに悦楽を求めた。
 エアコンは目一杯の運転を続けているし、畳はひんやりしているしで実に心地いい。至福のひ
 とときだ。
  つけっぱなしになっていたTVが、午後十時のニュースを流し始めた。
  今日の銀行強盗――ではなくて、婦女暴行事件がトップニュースである。このくらいの事件
 なんて近頃じゃ大したこともないが、よりにもよって要塞銀行に、しかも婦女暴行目当てで押
 し入ったという話題性が、今回のそれを序列トップに押し上げたのだろう。
  あたしたちは取りあえずおしゃべりをやめて画面に集中した。
  看板キャスターとかいうトロくさそうなおねえちゃんが、たどたどしい口調で原稿を読み上
 げる。
  それによると、あの化物犯人はニ十五歳の男性だそうだ。名前は人権保護の立場から、容疑
 者といえども裁判で有罪が確定するまでは公表されない。氏名手配制度が撤廃されたのも臨時
 契約協力者の台頭を促す一因になったことは、今更いうまでもないだろう。
  犯人は被害を受けた女性行員の反撃を受けて死亡したと告げたあと、キャスターはこのテの
 事件の常として、犯人がカスタマーではなかったことを付け足した。ちなみに自己責任におい
 て「殉職」したドリルゴリラの氏名はばっちり公表され、彼が迫水健之介という立派な名前を
 もっていたことをあたしは知った。合掌である。犯人と彼の関係については公表されなかった。
  ほうほうと情報に耳を傾けていたあたしは、そこでげっとなって絶句した。警察の命令違反
 を犯した臨時契約協力者、鞍馬アズサが、違反切符を切られたと流されてしまったのだ。こん
 なこと、一度もなかったことだ。こりゃ警察さん、よっぽどハラに据えかねたらしい。
 「まいったなあ」
  ぼやくと、
 「いいじゃない、これで有名人だよ」
  とルットが言った。
 「冗談じゃないよ。第一、誰があたしの名前なんて知ってんの?」
 「だったら問題ないじゃない」
  そりゃそうだ。
  だけどこいつは気分の問題であって、違反者として名指しされて気分がいいわけがないだろ
 うに。
  あたしたちのやり取りをよそに――あたりまえか――して、画面の中ではコメンテイターと
 称するおっさんとキャスターが、なにやら会話を続けていた。犯人がカスタマーでもないのに、
 なぜ警備ロボット、そして機械化機動隊を壊滅させることが出来たのかという話題らしい。
  実際、この目で犯人のパワー、そしてあの妙な触手攻撃を見ているあたしとしても、その辺
 りのことが最も気になる部分ではある。
  が、放送電波を使用しての議論は、まったく要領を得ないものに終始した。薬物使用説が出
 れば否定され、武器携帯説が成されれば却下され、果ては何かの間違いなんて、とても高学歴
 者が言うような台詞じゃない一節までが持ち出されるのだから呆れるしかない。
  結局最後は、
 「まあ世の中には色々ありますよ」
  というコメンテイターの一言で手打ちとなった。
  あたしゃ思ったね。
  こんなんでお金を稼げるなんて、やっぱり世の中はネームバリューなのかね、と。
  しかし、色々あるというその一言が妙な重みを持っているのがいまの世の中だ。カスタマー
 でもない男が人間離れしたことをやってのけたのがその証拠といえば証拠になる。登録済み臨
 時契約協力者の義務として、犯人が行った所業を知る限り警察には話しておいたけど、その辺
 りの情報を連中がどう取り扱うのかはあたしの窺い知れるところではない。
 「どう思う?」
  訊くと、
 「被害者もガスが効かなかったのよね? それもちょっと気になるよね」
  とルットは応えた。
  確かにそうだ。あのすごい力持ちの女子行員、彼女がカスタマーなのかどうかはニュースで
 は触れなかったけれど、どちらにしても麻酔ガスを食らっておいて、十五分そこそこで目を覚
 ますというのは腑に落ちない。始めはガスが不良品なのかとも思って、翠刃の修理を行いなが
 ら成分検査を試みてみたけれど、結果はまるで問題なしと出た。
 「特異体質だったのかねえ?」
 「体質であのガスの効果に影響が出るって報告はなかったと思うけど、そうとでも思わないと
 他に考えようがないよね」
 「まあ、なんだ――」
 「世の中には色々ありますよ」
  ルットはついいましがたのコメンテイターの台詞を真似て見せた。
  結局のところあたしたちがどれだけアタマをヒネっても、わからないものはどこまでいって
 もわからないのだ。これからの仕事がやりにくいものにならなければいいなあと思う程度が関
 の山ってところ。
  それからしばらく思い思いの娯楽に興じていたあたしたちは、寄るも更けたことだし、そろ
 そろおねむの時間にしようかと寝室に向かった。
  居間の隣にある寝室は、板張りになっている。ダイニングキッチンとここが洋間で、居間は
 畳の敷かれた和室だ。和洋折衷は日本人の得意技だよね。節操がないと文句を言う向きもある
 けれど、適材適所と考えればいいのだ。
  寝室には大きなダブルベッドがひとつ、部屋の大半どころか、ほぼ全面を占領して居座って
 いる。この家には他に寝具はない。つまり、あたしとルットはふたりで同じベッドを使うのだ。
  始めは別々に寝ようとしたんだけれど、あたしもルットも子供のころからベッドで寝ていた
 せいか、布団だとどうにも熟睡出来ない。申し訳程度の広さしかない寝室にふたつのベッドは
 置けないし、居間にベッドを置くのはどうしても我慢出来ないとルットが猛反対。結果として、
 それなら一緒に寝ようよという段に落ちついたのだ。
  クーラーをお休みモードに設定して、あたしはもそもそとベッドにもぐり込んだ。ルットが
 右側で、あたしが左側。
 「電気消すよ」
 「ん」
  ルットが明かりを消し、ぽすんとばかりにベッドに入った。
  ああ、こうやって横になると、じんわり疲れが滲み出てくる。あちこちの打ち身がずきずき
 するけど、それもまた心地よしってかんじ。
 「おやすね、アズサ」
 「おやすみ、ルット」
  それからあたしはぶぶつと頭の中で色々考えた。取りたててなにを考えるというわけでもな
 いけど、あたしは意識が失せるまでそうやって取りとめもないことを考えてないと、うまく眠
 れないのだ。
  小さかったころの想い出。
  ルットのこと。
  翠刃のこと。
  それから世の中のこと。
  次第に時間の感覚が失せてゆく。
  自分がなにを考えているのかがわからなくなる。
  眠りにつきつつあることがぼんやりと理解出来る。
  意識が闇に包まれる。
  と。
  ふん、ふん、と小さな吐息がどこからか聞こえてきた。
  ああ、またしてるな、とあたしは思った。
  きゅ、と左手を握られた。
  時々力が入ったり、あたしの指をなぞったり。
  ルットだ。
  彼女は時折、眠るまえにひとりえっちをすることがある。
  たぶん、あたしが眠っていると思っているに違いない。
  ところが、あたしは寝つきがよくない。
  始めは驚いたけれど、あたしは気付かないふりを続けている。あたしだってひとりえっちを
 してるとこを見られたりしたら恥ずかしいもん。
 「やん…」
  と甘ったるい声が漏れた。こんなときのルットの声は、ほんとに愛らしい。
  おなかの中がむずりとした。
  やだ、なんだかあたしもえっちな気分。あたしにそのケはないけど、やっぱり隣でひとりえ
 っちなんかされたらヘンな気分になる。いつもはそれほどでもないけど、今日はその瞬間、昼
 間の出来事が脳裏に蘇ったのが原因だ。
  あの犯人、死ぬ間際にぴゅる、と出していた。
  始めて見た男のひとの射精。
  気持ち良さそうだった。
 「きもちいいよう…」
  ルットが小さな声で言った。うっとりした声だった。
  もそもそとした動きが伝わってくる。薄いタオルケットの中が、なんだかかあっと熱くなっ
 てきたような気がする。
  ルットの吐息が次第にひきつれてきた。
  あたしの掌を握った指が、ひくくん、と痙攣する。
  ルット、いっちゃうんだね?
 「は――」
  ぷるぷるぷる、と小刻みな振動がベッドを漣のように走った。
  ルットの細い腰が持ちあがって、タオルケットの中の空気が動いた。
  掌が、強く握り締められた。
  ぽす、と彼女のおしりが落ちた。
  満足気な吐息が長々と流れて、次第に落ち着いていった。
  少しして、ルットはベッドに備え付けられた棚に置いてあるティッシュペーパーを何枚か抜
 き出し、密やかな行為の後始末を始めた。しゅる、と小さな摩擦音が聞こえる。
  最後に彼女は言う。
 「アズサ、きもちよかったよ…」
  いつもの台詞。
  そして小さな寝息が流れる。
  あたしはそれをじっと聞いていた。
  それからゆっくりとショーツをおろして、えっちなところをさわり始めた。
  ぬるぬるだった。
  いっぱいきもちよくなって、あたしは眠りについた。

 

                                      つづく

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