top of page

                    第二章


  1.

  誰かがドアを叩いている。
  規則正しく三回づつ、ちょっと間を空けて繰り返している。
  切迫した雰囲気も乱暴な雰囲気もしないけど、却ってそれだけに神経に障る。
  隣でルットが鬱陶しそうに呻いて寝返りを打った。
  あたしはベッドから抜け出して、棚の時計に目をやった。
  午前五時ジャスト。
 「常識のないやつ、きらい…」
  もごもご言いながら、クローゼットの抽斗を漁る。
  お寝坊さんのルットよりはマシだけど、あたしだって朝には弱い。結局適当なシャツとショ
 ートパンツを取り出して着るまでに五分は掛かった。
  その間、ノックの音は飽きもせずに繰り返し響いていた。あたしが目覚める前からだからど
 れくらいの時間そうしていたのかは知らないけど、訪問者はよっぽど辛抱強いやつに違いない。
 あたしだったら諦めて帰るか、さもなきゃドアを蹴っ飛ばし始めている。
  玄関に向かいながら、あたしは不機嫌な精神と折り合いをつけて深呼吸を繰り返し、寝起き
 のだらけた全身に酸素をたっぷりと含ませた血液を循環させた。早朝の訪問者が相手だ。よっ
 ぽどの急用でもなけりゃ、なにかしらの邪な思惑を抱いているに違いない。
 「どちらさまあ?」
  我ながらもごもごと、不明瞭な不機嫌そのものの声色だ。相手を油断させるための演技だけ
 ど、不機嫌という辺りに関しては素で充分だ。
  ノックが止んで、静かな落着いた声で返答があった。
 「警察です」
  いやな予感がした。警察の名を騙る悪人、と思ったからじゃあない。今時警察を騙る犯罪者
 なんていやしない。対犯罪教育の行き届いた市民相手じゃ成功の確立は最低だし、バレたらバ
 レたで全警察官に必要以上の敵対意識を抱かせ、おまけにふん捕まれば大罪になる。
  なんかマズイことでもしたかなと思いながら、あたしはドアを開けた。一応念のためにドア
 に備え付けられている覗窓から確認を、なんてことはしない。そこから携帯レーザーを撃ち込
 まれて失明した人間の轍は踏みたくない。最近の覗窓はレーザーを屈曲させる偏光ガラスを採
 用しているけど、もちろんうちのはただのガラス製のレンズだ。
  ドアの外は踊り場になっていて、鉄製の簡易階段が下の歩道に続いている。その踊り場に三
 人の男が立っていた。全員三十路も半ばってところだろう。グレーのズボンに白いワイシャツ
 という地味な服装も全員同じだ。入り口を半円に取り囲んで、逃げ道を自然に塞いでいる。
 「鞍馬アズサさん?」
  中央の男が警察手帳を取り出して言った。左隣の男がペンライトのようなものを警察手帳に
 向けると、紫色の紋章がぼんやりと浮かび上がる。特殊不可視光線にのみ反応するプリントに
 よる真贋の確認だ。このプリントの偽造が不可能に近いというのも、警察を騙る者の台頭を抑
 える一因になっている。警察官に警察手帳の提示を求めるのは一般市民の権利だし、折角の権
 利を棒に振ろうなんて人間はいやしない。尤も特殊不可視光線の正体すらが機密の状態で、そ
 れを携帯しているのが警察官だけときては、それが本当に本物なのかの判別は、一般市民には
 少々つけ難い。そうそう簡単に騙せはしないだろうが、ブラックライトかなんかで代用品を造
 れる可能性はあるわけだ。お役所仕事はやっぱりどこか抜けている。
  が、どうやら目の前の警察手帳は本物らしい。警察官から装備品を盗むのが不可能な現状な
 のだから、つまり目の前の男も本物の私服警官ということになる。残りの二人もご丁寧に警察
 手帳を提示しては、互いにペンライトを向け合って紋章を浮かび上がらせた。両手が塞がらな
 いようにするための処置だろうけど、なんかカッコ悪い。
 「そうですけど、なにか?」
  可愛らしく言ってみたけど、おっさん連はにこりともしなかった。ふん、きっとこいつら全
 員独身に違いない。
 「逮捕状が出ています。身柄を拘束させて頂きます」
  にこりともしないどころか、おっさんはそう言って今度は逮捕状なんぞを取り出した。
  あたしはぎょっとして、
 「な、なんの容疑よ?」
  と目をシロクロさせた。
 「登録済み臨時契約協力者義務違反です」
  ぺしぺしと薄っぺらい逮捕状を指でつつく。確かにそこには殴り書きのようなきったない字
 でそう記されていた。
 「そんなバカな――」
 「午前五時零八分、逮捕です。――失礼します」
  腕時計の時刻を読み上げて、おっさんは素早くあたしの両手に軟質手錠を掛けた。後々裁判
 沙汰にならないように言葉遣いは至って丁寧だけど、行動には有無がない。流石にプロ、抵抗
 する余地すらなかった。
  あたしはぞっとして身震いした。だって、逮捕だよ? いままで散々警察とは罰金やら報奨
 金の受け渡しで接してきたけど、逮捕なんてされたことはない。こうなると子供のころから刷
 り込まれてきた国家権力という強大な力に対する畏怖が、否応もなく溢れ出てくる。これから
 どうなっちゃうんだろうと泣き崩れそうになるくらい。
  でも、泣いてる場合じゃない。
 「義務違反って、いつの違反? 昨日の? だったらあれは違反切符きられてるわよ!」
  あたしは怒鳴った。
  確かに登録済みの臨時契約協力者が警察の指示に従わなかった場合は罪になるけど、大抵の
 ことは罰金で済まされる。逮捕なんてよっぽどのことがなけりゃないし、そもそも逮捕される
 のならば現場でそうされているはずだ。時間を置いての逮捕なんてのは絶対におかしい。
  おっさん連は質問に応えず、
 「失礼します」
  二人が玄関に入って家に上がり込んだ。一人はあたしの見張りに残っている。
  ルットを捕まえる気だ。
  彼女は関係ないでしょ、とは言えない。チームとして登録されている限り罪も双方に課せら
 れる。
  けど、今度ばかりは黙っていられない。
 「ルット! 逃げて、ルット!」
 「静かに」
  息が詰まった。
  あたしは声もなく膝を折ったが、おっさんに腕を掴まれているので倒れることも出来ない。
  おっさんは、あたしの右手の肘の内側を、親指と中指で握っている。そこがどんな急所にな
 っているのかあたしは知らないけど、微妙に力を加えられただけで、とんでもない激痛が脳天
 まで衝き抜ける。これならば外傷は残らないし、多分内出血だって起こさないだろう。証拠が
 なけりゃ後で訴えることも出来ない。
  ほどなくして寝室の方からルットの悲鳴が響いてきた。あの娘のことだ、いまのいままで眠
 りこけてたんだろう。見知らぬおっさん二人に強制モーニングコールをいれられた日にゃ、あ
 たしだって悲鳴を上げる。いい男だってんなら話はべつだけど、これじゃあ夢も希望もありゃ
 しない。
 「アズサ! アズサ!」
  あたしに助けを求めている。かわいそうに、涙声だ。
  睨み付けてやると、おっさんは軽く頷いた。
 「ルット、落着いて、大丈夫だから!」
  許可を得て応えると、どうやらルットも落着きを取り戻したようだ。すぐに悲鳴が消えた。
 どうやらおっさんたちの正体を知らされたらしい。
  ひっばり出されてきたルットは、パジャマがわりの丈の長いシャツ一枚だけというあられも
 ない格好をしていた。
 「アズサ…」
  惨めな様子であたしを見つめる。必死になってふとももを隠そうとしてるけど、手錠を掛け
 られているのでそれも侭ならない。
 「ちょっとあんたら、女の子をなんて格好で連れ出すつもりなのよ!?」
  あたまにきて、怒鳴る。警察だか国家権力だか知らないけど、乙女の純真は何人たりとも侵
 害出来ないのだ。
  するとおっさんの内一人が、踵を反して寝室に戻っていった。どうやらクローゼットを探り
 にいったらしい。くそう、あそこには下着も仕舞ってあるのに。
  戻ってきたおっさんは、こともあろうに黒地に白ラインのスパッツを手にしていた。断言す
 るね、絶対に趣味だ。おっさんには知りようもないけど、あれはあたしのだ。
 「ヘンなものまで触らなかったでしょうね?」
  悔し紛れに嫌味のひとつも言ってみたけど、ちっとも腹の虫はおさまらない。ルットなんか
 子供のようにおっさんの手でスパッツを穿かされて、またもやぽろぽろと涙を零し始めている。
 屈辱的だ。
  おっさんは、今度はあたしたちの手にタオルを掛けて手錠を隠した。却って尊厳を傷つけら
 れる。
  外に引き出されて驚いた。眼下の路上には覆面パトカーが一台と、どうみても警察車両、そ
 れも中型の運搬車一台が停められていたのだ。連中、翠刃まで押収するつもりらしい。こりゃ
 あいよいよ本格的なことになってきた。
  階段を降りて歩道に立つと、見たくもない顔が待ち構えていた。
 「なにかあったんですの?」
  怯えた顔の裏にそれみたことかという歓喜を押し殺して言った花田女史は、こともあろうに
 ピンクのネグリジェ姿という破壊的な色彩を辺りにぶちまけていた。耳ざとく騒ぎを聞きつけ
 て起き出してきたんだろうけど、朝日に輝く海からの潮風に、ぷんとした白粉の匂いまでもが
 篭っているのには閉口するしかない。
 「いえ、別に」
  おっさんが応えた。ふん、別になにもないなら、いますぐ開放しろってんだ。
  ご苦労様ですとかなんとか警官に向かってあたまをさげる花田女史を後に、あたしたちを乗
 せた覆面パトカーは走り出した。ちらと振り向くと、あのババア、口許に手を当ててくすくす
 笑っていやがった。ちくしょう、今度会ったらただじゃおかない。
  四人掛けのバックシートに、あたしとルットは両脇をおっさんに挟まれて座っている。あた
 しとルットが小柄なのを差し引いても、流石にきついし、暑苦しい。唯一の救いはエアコンが
 強力に効いていることだけど、ルットはちょっと寒そうだ。
  予想した通りというかなんというか、しかし苦痛は長く続かなかった。碁盤の目のようなス
 ラムを出た車は国道十四号線に入り、五分ほど南下、すぐに目的地へと到達したのである。味
 も素気もない四角四面の建物は、天下の千葉県警察だ。県警の連中は三十年前の地震も乗り切
 ったのだと密かに自慢にしているらしいが、あたしに言わせりゃただのおんぼろビルディング
 だ。改築増築を繰り返しているとはいえ、一体築何年になるんだろうと来るたびに思う。大体、
 この建物は元は千葉市役所として機能していたものだ。県庁舎と共に倒壊した県警が、震災後
 の治安維持の為にと当座の間借りを始め、それがそのまま居着いてしまったのである。だから
 いまの県警職員に耐震性を誇る資格はないのが本当のところだ。
  車は県警の裏手にある駐車場に乗り入れた。警察といえども早朝は人が少ない。停めてある
 車は疎らだ。
  車を降ろされたあたしたちふたりは、人ひとりがやっと通れるくらいの、小さな扉に案内さ
 れた。窓も無い壁面にぽつんとあるそれは、どう見たって裏口だ。あたしは逮捕された容疑者
 がまずどこに連れていかれるのかなんて知らないけれど、なんだかいやな予感がした。
  おっさんのひとりが鍵を開けて、あたしたちの前後をカバーしながら入っていく。
  扉の向こうはすぐに階段になっていた。下りだけだ。陰鬱な雰囲気がする。尤も薄汚れてい
 るとか薄暗いとかいうことはない。真新しい白塗りの壁に、取りあえずは清潔に保たれたリノ
 リウムの床、照明だって眼にしみるほど煌々と降り注いでいる。
  階段は中途半端な距離を繋いでいた。途中に一八○度折れ曲がる踊場があったけど、上半分
 と下半分の段数が違う。感覚的には地下一階半下りたという感じ。
  また扉があった。目の前にひとつだけ。つまりさっきの裏口と階段は、この扉に辿り着く為
 だけに存在しているということだ。ここは署内のどこにも通じていない袋小路なのだろう。あ
 たしのいやな予感はここで最高潮に達した。
  先頭を歩いていたおっさんが鍵を開け、あたしたちを扉の中に押し込んだ。
  前言撤回。
  あたしのいやな予感は今度こそ本当に最高潮に達した。
  扉の中は、六畳ほどの広さを持つ小部屋になっていた。但し床はコンクリート剥き出しの上
 にいくつもの排水溝が設置され、壁は壁でこれまたコンクリートで覆われ、窓がない替わりに
 太い蛇口が突き出ているそこを、部屋と呼べればのはなしだ。
 「ちょっと――」
  振り向いたあたしの声は、金属音も重々しく閉じられた扉に跳ね返された。そういえばあの
 扉、やけに厚かったような気がする。
 「アズサ…」
  ルットの泣きそうな声。
 「この匂い…」
  言われて気がついた。どこかにあるらしいエアコンに冷やされた部屋の中に薄く漂っている
 のは、塩素に薔薇の香りを混ぜたような、なんとも寒々しい匂いだ。喩えるならば黒板を爪で
 引っ掻いた音をそのまま匂いにしたとでもいえばいいのか。
 「消臭剤だね」
 「それも、血臭専用のだよ…」
  あたしの言葉をルットが補足した。現場で警官が使用していたのを、何度か嗅いだことがあ
 る。これは間違いなく血臭を中和する為の消臭剤の匂いだ。
  もう前言は撤回しない。
  いやな予感は確信にかわった。
  大変ありがたくない確信だ。
 「どうしてわたしたちが――」
  言いかけてルットが口を噤んだ。
  その先を口にするのが怖いんだろう。
  あたしだってそんな言葉は聞きたくもない。
  手錠を駆けられたままの不自由な手でドアノブを捻ってみる。びくともしない。部屋を見ま
 わしてみる。蟻の這い出す隙間もない。ルットの姿を眼に映してみる。泣きそうなのは相変わ
 らず。自分の姿を想像してみる。ルットと大差ない。
 「まいった…」
  キブアップ宣言に、ついにルットがぐすぐすと泣き始めた。
  がちん、と音がした。
  扉の鍵が外された音だと意識した瞬間、あたしは肩から扉に体当たりを敢行していた。
  丁度開いた扉は、しかしあたしの身体を跳ね返した。思う間もなく人影が突き入れられ、無
 様に転がったあたしの上に倒れてきた。
  扉が閉まって、また鍵が掛けられた。
 「花田さん…?」
  ルットが疑わしそうな声で訊いた。
  あたしは顔を見る前に白粉の匂いで人影の正体を察していた。あたしの上でじたじたともが
 いているのは、ピンクのネグリジェ姿もおぞましい花田女史そのひとに間違いない。
 「ちょっと、どいてよ!」
  花田女史の鶏がらみたいな身体を撥ね退け、あたしはなんとか立ちあがった。ごん、と鈍い
 音がしたのは、多分、女史が頭を打った音だろうけど、ふん、そんなの知ったこっちゃない。
  見下ろしてみると。
  おやまあ。
  女史、なんとも念入りなことに後ろ手に手錠をかけられ、タオルで即席の猿轡まで噛まされ
 ている。どう贔屓目に見ても警察に連行されたというよりは、浚われてきた人質だ。もがもが
 と呻いては顔を真っ赤にしているけど、五月蝿いから助けてはあげない。
  あたしはルットと顔を見合わせた。
  個人的には心穏やかならざる隣人なれど、女史にこのような仕打ちを受ける非があるとは思
 えない。根本的に他人に手を下せない人間だから人との接触を嫌い、ねちねちと嫌味を言うの
 が関の山なのだ。
  その花田女史がここに連れてこられたということは。
 「目撃者の始末?」
 「だろうね」
  あたしは盛大な溜息をついた。このおばさん、残った警官に根掘り葉掘りいらんことを尋ね
 たんだろう。手に余って強制連行されたに違いない。そうでなければこんな事にはならないは
 ずだ。曲がりなりにも正式の手順に則ってあたしらを逮捕しにきたんだ。余計な人間まで浚う
 のであれば、始めからもっと荒っぽい手で押しかけてきてもよかったはずだ。
 「やっぱり、わたしたちのせい?」
 「自業自得だよ」
  応えて、しかしあたしらはどうなんだろうかと考えた。この不吉極まりない地下室に目撃者
 共々押し込められる理由なんて、果たしてあるんだろうか。警察がお遊びでこんなことをする
 とは流石に思えないし、かといってそれに価するような事柄も思い当たらない。あたしに提示
 された逮捕理由が真実だとしたら、それこそこの仕打ち、ひいてはこれから発生するであろう
 事態は行き過ぎだ。第一どんな理由があろうともだ、どこの世界に人知れず浚ってきた人間を
 消血臭剤で後始末しなけりゃならない羽目にあわせる警察があるものか。
 「あなたたちのせいよ!」
  金切り声があたしとルットの背中を跳ねあがらせた。
  見ると、未だ床に転がったままの花田女史が物凄い形相で睨み付けている。
  よくも猿轡越しに声が出せるもんだと一瞬思ったけど、女史、なんとも器用なことに自力で
 猿轡を外していた。どうやらあぐあぐと顎を動かし、無理やり外してしまったらしい。習得し
 たい技術ではある。
 「あなたたちの仲間なんかに間違われたからこんなことに!」
 「そういわれたの?」
 「いわれなくたって他に理由なんてありはしないわ!」
  決めつけて、花田女史は怒鳴った。その後は善良な市民をこんな目にあわせて、裁判で思い
 知らせてやるとかなんとか、今度は警察に対する怨嗟を喚き立て始めた。
  処置なし、とあたしは頭を振るしかない。
 「眠いよう…」
  ルットがなんとも状況判断に乏しい台詞を吐いたが、その瞳は涙で潤んでいた。
  気持ちはわかるよ。
  あたしだって眠い。いまの状況なんてキレイさっぱり忘れて、布団の中に潜り込みたい。問
 題があるとしても、ひと眠りした後にやって来て欲しい。現実逃避の初期症状だけど、この際
 逃げ込める場所があるならなんだって構わない。なんとかしてそこに行きたい。
  眼を閉じて、次に眼を開けたらここは自分のお家。
  念じて俯いた。

 

  2.

 「静かにしろ」
  声に、花田女史の喚きがぴたりと止んだ。
  あたしとルットは同時に天井に眼を向けていた。
  声はそこから聞こえていた。
 「壁際まで退がれ」
  小さなスピーカーがあった。そいつがあたしたちに命令をしている。
 「これからドアを開ける。妙な真似をしたら黙っちゃいない。銃を持ってるぞ」
 「妙な真似をしてるのはあんたたちじゃない!」
  聞こえるかどうかもわからなかったけど、あたしはそう叫んだ。
 「妙とは心外だ。これも正式職務」
  返答があった。ちゃんと聞こえるらしい。静かにしろ、という命令があったんだから、当然
 といえば当然だけど。この調子じゃどこかにカメラがあって、こっちの様子も筒抜けに違いな
 い。
 「ふざけないでよ!」
 「退がれ」
  再びの命令に、あたしとルットは仕方なく扉とは反対側の壁際まで退いた。花田女史は転が
 しっぱなしにしておいたけど、スピーカーは沈黙していた。
  扉の鍵が外れて、開いた。
  ふたりの男が入ってきて扉を閉めた。
  あたしはちょっとがっかりした。
  よくもまあこんなときにと、自分でも感心したもんだけどさ。
  男の内のひとりは、年の頃ならニ○台中頃、清潔なスーツもよく似合う痩せた長身と、細面
 の甘いマスクを我がものにしていた。ただ惜しむらくは、どこか気の弱そうな雰囲気が、せっ
 かくの賜物を台無しにしてしまっている。鍛えなおせばナイフの切味を持つ優男にはなれるか
 もしれないけれど。
  もうひとりは、なんともアナクロな茶色のトレンチコートに身を包んだ中年だ。真夏の最中
 に自らのスタイルを崩さないのは立派だが、それがヨレヨレの上にまるで似合っていないとき
 ては、褒める前に貶したくなる。おまけにこのオヤジ、出っ腹の上にチビだ。ぼさぼさの髪の
 毛の上にはドブ川に落っことしたようなハンチングが載っかって、前をはだけたコートの内側
 では趣味の悪いネクタイがのたくっている。ダメ刑事のステロタイプもここまでくれば大した
 ものだ。多分スピーカーの声の主はこっちだろう。声だけなら燻銀なのに、世の中うまくいか
 ないもんだ。
 「おはよう、お穣さん方」
  オヤジがにやにやいやらしい笑いを浮かべて言った。やっぱりスピーカーと同じ声。
 「臨時契約協力者だってな。だったら大体どうなるのか見当はついてるだろう?」
 「つけたくもないわよ」
  言いながら歯を剥くと、魔法のようにオヤジの掌に拳銃が現れていた。これまたアナクロな
 短銃身の回転式だ。うんざりした。ダメオヤジのくせに銃の扱いが物凄いらしい。まるで似合
 わないのに、ぴたりと構えたその姿は完成されている。
  ひっと誰かが息を飲んだ。花田女史だろう。
  あたしは寄り添ってくるルットを庇いながら唾を飲んで、
 「理由くらいは聞かせてもらえるんでしょうね?」
 「部外秘だ」
  オヤジは応えた。
 「わ、私は違うわ! こんな連中とはなんの関わりもないんです!」
  漸く己が身に降り掛かった事態を察したらしい花田女史が、薄情にもそう叫んでオヤジにに
 じり寄って行った。ピンクの老蛇が這うが如き動きだ。
 「ババアはすっこんでろ」
  同時に部屋中に音圧が満ちた。鼓膜がきんきんする。
  花田女史よさらば、と半ば観念したけど、発射された銃弾は女史の鼻先の床に砕けていた。
 ぴくりとも動かなくなった女史は、どうやらショックで失神してしまったらしい。
  オヤジはあたしたちに眼を向けたまま、
 「やれよ」
  と隣の気弱男に言った。
  気弱男は真剣に困った顔をして、もぞもぞと身じろぎをしたが、なんらの行動も起こさない。
  オヤジ、いらいらしたように言う。
 「初仕事だから抵抗あるのはわかるけどな、なに、やっちまえば楽な仕事さ」
 「し、しかしですね…」
  気弱男がやっと口を開いた。こっちは顔に見合った若々しい声。やっぱり弱腰だけど。
 「僕はその、こんなことは…」
 「選ばれたことに誇りをもたねえか」
 「選ばれたって言われても、大体なんで僕が…」
  オヤジは溜息をつき、
 「おめえ、この商売に就いて何年になる?」
 「に、ニ年です」
 「だったら場数は踏んだわなあ」
 「一応は…」
 「そんなら死体だって山ほど見てるだろう。人間なんてなあ、肉と血の塊でしかねえんだよ。
 余計なこと考えねえでやっちまいな」
  どうやらあたしたちの始末をするのは気弱男の役目らしい。それも今回が始めての。会話か
 らすると、浚ってきた人間を始末するのは選ばれた者の仕事らしい。それがどんな基準で選ば
 れているのかは知らないけど、誰でも彼でもが汚れた仕事をするわけではないようだ。もちろ
 んいまのあたしにはそれを警察の良心とはとても思えない。大体、専任の人間が必要な程に裏
 で人間を消している警察なんて、ろくでもないのにも程がある。自身の身に発生しつつあるこ
 ととはいえ、到底信じられないことだ。いや、そもそもこいつら、本当に警官なんだろうか?
 様子からするとそうらしいけど。
 「血と肉の塊なんて、そんな――。ぼ、僕はそうは思いませんよ…」
  気弱男が逆上したように叫んだけど、すぐにしょんぼりと俯いてしまった。ええい、しっか
 りせんか! あんたの頑張りひとつに、取りあえずのあたしらの命が掛かってんだから!
 「僕は…。僕は人間にはなにか重要な役目があると思うんですよ。考えたことはありませんか、
 人はどうして生まれてきたのか――」
 「誰かと誰かがオメコしたからだろうがよ」
 「どうして生きていくのか――」
 「メシ食らってっから生きてるんだろうがよ」
 「そこにはなにか神聖な意思が働いていると思うんですよ」
  オヤジの下品な茶々にもめげずに持論を展開した気弱男は、なにやら考え込むような面持ち
 で宙を凝視し始めた。
  オヤジはちらりと眼の端でそれを捉え、やれやれと溜息をついた。
  実はあたしもちょっと引いてしまった。心情的には気弱男の意見に全面的な賛意を表したい
 ところではあるけど、あんまり友達にはなりたくないタイプだ。が、隣を見て驚いた。ルット
 が真面目な顔で頷いているのである。流石に教会育ち、と言いたいところだけど、このお嬢さ
 ん、殺人現場で平気な顔してハンバーガーを食べられるんだよ? 節操なしめ。
 「わかったよ」
  オヤジが言った。
  喜べなかった。
  短い時間の内でも、このオヤジがどういう人間なのかなんとなく把握出来ていたからだ。
  間違っていなかった。
 「それなら神聖なお嬢さん方に、神聖な行為でもって生きている意味を作ってやろうじゃねえ
 か。――人がどうして生まれるのか、よっく見ておきな」
  見たくもない光景だ。
  中年オヤジがズボンのジッパーを下げながら近づいてくる。
  昨日の銀行襲撃犯といい、どうして男ってのは揃いも揃って――。
 「草薙さん!?」
  気弱男が戸惑ったように叫んだ。それがオヤジの名前なんだろう。名は体をあらわすって諺、
 ありゃ廃止した方がよさそうだよ。
 「おたつくない。こいつは俺の愉しみなんだよ。おまえの初仕事だってから遠慮してたけどな
 あ、くずくずしてやがるなら遠慮はしねえよ。――知ってるか? 最後の瞬間に心臓をぶち抜
 いてやるとな、女は痛みを感じねえんだ。ひぃひぃよがりながら死ぬんだぜ? これくらい幸
 せな死に方もねえだろう。断末魔の痙攣もえらく具合がいいしな。いつか女房にも試してやろ
 うと思ってんのさ」
  吐気がしたね。
  こんな醜悪な眺めからは顔を背けたいところところだけど、いかんせん立場上そうもいかな
 い。あたしは漠然とではあるが、この状況を利用出来ないものかと必死になって考えているの
 だ。女体に現を抜かすバカ男を手玉にとる。定番といえば定番だけど、実際にそんなことをし
 た人間っているんだろうか。
  オヤジの視線があたしとルットの間を何度かさまよった。
  それが最後に捉えたのは、ルットの怯えた表情。
  いや、とルットが呟いた。当然だ。
  躊躇している場合じゃない。
  あたしは身を乗り出した。
 「ねえ、本当に痛くないの? だったらあたしから、して」
  オヤジが突然行動を起こした。
  柔らかいものが千切れるような音がして、喉の奥が熱くなった。
  どこかで、ぐぼ、という汚らしい音がした。
  あたしは床に這いつくばって、胃液を盛大に吐き戻していた。
  息が出来ないことに気付いた。
  視界が真っ赤に染まっている。
 「バカ女が」
  オヤジがあたしのおなかを蹴りつけた足を引きながら言った。
 「そんなテを使った女が何人かいた。どうしたと思う? 弾倉が空になるまで生かしておいて
 やったよ」
  手の内を見透かされた。
  滅茶苦茶に苦しい。
  ルットが呼んでる。
  さっきから聞こえている獣の唸り声みたいなの、きっとあたしの声だ。
  思考がばらばらになってる。
  全然関係ないことをいくつも同時に考えてる。
  それが全部、苦しいよ、と叫んでた。
  またひとつ、苦しくなった。
  オヤジがあたしにのしかかっていた。
 「そっちのお嬢さんを見張ってろ」
  気弱男に指示を出して、あたしの胸を乱暴に揉んだ。
 「みっともない女を見ると興奮するタチでよ」
  言って、腰を擦りつけてきた。
  硬くなっている。
  乳首がずきずきする。
  シャツの上から摘まれている。
  ふざけんな!
  頭の中であたしは叫んだ。
  むかむかしてきた。
  苦しさがふっとんだ。
  ぶん殴ろうとしたら。
  あっさり押さえつけられた。
  両手とも手錠に戒められていては自由が利かない。
 「撃っちまうぞ?」
  片手であたしの自由を奪い、もう片手には銃を握ったまま、オヤジは器用にあたしの胸をま
 さぐっている。
  恥ずかしさなんか、ない。
  ついでに言うと、恐怖もなくなっていた。
  ただもう、このクサレオヤジをぶっころしてやりたいだけ。
 「この――くだばれクソオヤジ!」
  じたじたともがく。
  オヤジの顔色がかわった。
 「決めた、殺す」
  躊躇なくあたしの眼前に銃をつきつける。
  みっともない女には興奮するけど、生意気に女には怒りをかられるタイプ。
  流石に肝が冷えた。
 「よ、よしてください!」
  気弱男がうろたえて叫んだ。
  意識が逸れた瞬間、ルットが動いた。
 「ぐえ!?」
  見事なつま先蹴りを肋骨の間に突き刺され、オヤジはもんどりうって転がった。ルットの蹴
 りは強力ではないが、正確無比に急所をぶち抜いている。教会育ちとはいえ下町の剣呑な場所
 に建っていた教会だ。多少の荒事なくして生きてはいけないし、それくらいは神様も認めてく
 れるだろうという環境にあった。後には退けなくなった時のルットは、あたしよりも思いきり
 がいい。
  あたしはその隙に銃を奪い、気弱男に素早く差し向けた。
 「銃を捨てて!」
 「やめ――」
  銃声がして、気弱男の脛が裂けた。当てるつもりはなかったけど、銃なんて撃ったのは始め
 てだから仕方がない。
 「わかった…」
  結果オーライ。
  気弱男は傷の痛みに顔をしかめながら、あっさりと懐から銃を取り出して捨てた。ほんとに
 警官には不向きな性格だ。こちらの拳銃は大型の自動式。これもまた持ち主には不向きなのか
 もしれない。
 「ルット、ありがと」
 「よかったよう…」
  涙声で応えながら、それでもルットは気弱男の銃を拾ってオヤジに銃口をポイントしていた。
 未だにそういうところの性格は掴みきれていない。あたしが掴みきれてないんだから、初対面
 の警官二人が掴めているはずもない。大人しそうなルットの外見に油断したのが命取りだ。な
 にしろこっちは腐っても臨時契約協力者。未だに常軌を逸した事態に、腰のあたりがふわふわ
 して現実感を覚えきれてはいないが、いざとなったらやることはやる。尤も今回は全面的にル
 ットのお手柄だけどさ。
 「あんた、車は?」
  再び気弱男にいうと、彼は無言で頷いた。顔なんか真っ青だ。ちょっと気の毒になるくらい。
  あたしはふがふがと呻いているオヤジを蹴り転がし、
 「手錠の鍵を出して」
  と有無をいわさぬ口調で述べた。
 「も、もってねえ…」
 「殺すよ?」
  我ながら迫真の台詞だ。尤もいまのあたしには、こいつを殺すことに対する禁忌はない。こ
 んな男、死んでこそ価値が出ようってもんだ。
 「ほんとにねえんだ! 助けてくれよ、なんでもすっから!」
  身も世もない台詞。
  こいつ、自分が不利になるととことんだらしない。気弱男よりも警官としては不適格だ。或
 いは最も向いているのかもしれないけれど。
 「いいわ。この部屋の様子は上の連中に知られてるの?」
 「いや、ドアの外のモニターにしか転送されてねえ。こんなこと、おいそれと署内には流せね
 えよ」
 「わかったわ。いいね、あんたはいまからあたしたちの人質よ」
 「文句はねえよ」
  へらへらと笑ってオヤジは頷いた。三下のチンピラだってもう少しはマシだ。
 「どうするの?」
  ルットが訊いた。
 「決まってんじゃない。逃げんのよ」
 「悪いことしてないのに?」
  あたしは溜息をついた。
 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ…」
 「それもそうだね」
  あっさり納得。時々わざとやってんじゃないかと思う。
  あたしは気弱男に向き直った。
 「あんた、車に案内して」
 「わかった…」
  今度はオヤジに向き直り、
 「そこのオバサンを担いできて」
  と、失神したままの花田女史に顎をしゃくる。ほっとくわけにはいかないし、オヤジの両手
 を塞がせる目的もある。
  扉の鍵を開けさせ、あたしたちは外界への階段を上った。先頭が気弱男で、次が銃を背中に
 押し付けたあたし、その次が花田女史を担いでひいひい言ってるオヤジで、殿がやはり銃を構
 えたルットという順番だ。
  もう一枚の扉を開けて、外を確認する。
  人影はない。
  小突くと、気弱男が脚を進めた。どこに車があるのかわからないから黙ってついていくしか
 ないけど、どうやら気弱男は妙な考えを持ってはいないらしい。性格のこともあるし、なによ
 り己の先輩があのザマだ。反抗する気力だって萎えてしまうだろう。
  意外なことに、気弱男はすぐに脚を止めた。あたしたちが連行されてきた車の隣、そこに鎮
 座ましましている白黒ツートンカラーのパトカーの脇である。
  ううむ。
  なんとなくいやなカンジ。
 「これしかないの?」
 「自分の車はもっていないんだ…」
  世界的な大気汚染防止策に則り、政府の耳にタコが出来るような自動車削減勧告の甲斐もな
 く、我が国民の自家用車所有率は二○○パーセントを超えている。全世界から反感をかってい
 るこんな現状の中で、なんて生真面目な男もいたものだろうか。尤もあたしだってルットと共
 用の車は持っているけど、個人用の車両は所持してないんだから似たようなもんだけど。
  仕方なく、あたしはこれで我慢することにした。幸いなことにオートマチック車である。マ
 ニュアルじゃ、手錠を嵌められた手には少々きつい。
  ここで警官ふたりとはおさらばしたい気持ちもあったけど、時間稼ぎの為にやっぱり連れて
 いくことにする。
  キーを受け取り、あたしが運転席に陣取り、気弱男を助手席に座らせる。オヤジと花田女史
 は後席に乗せ、その隣にはルットをはりつかせた。彼女には気の毒だけど、あたしは絶対あん
 なオヤジの隣には乗りたくない。
 「いやだなあ」
 「我慢」
  ルットのぼやきを背に、エンジンをスタートさせた。正直、運転はルットの方が巧い。でも
 ふたりとも手錠を掛けられたままじゃ似たり寄ったりだろうし、いざというときにはやっぱり
 自分の手でハンドルを握っていたいもんだ。ルットが殊更抵抗しない理由はよくわからないけ
 ど、きっとあたしを信頼してくれているからだろう。――それともめんどくさいことをしたく
 ないだけか?
  走り出そうとしたそのとき。
  建物の角を曲がって現れたひとりの男が、はたとこちらに気付いてなにやら叫び始めたでは
 ないか。
  げ。
  あいつ、あたしをここに連行してきたおっさんのひとりじゃないか。
  ちくしょう、もうバレちゃった。
  あたしはアクセルを踏み込んで急激な加速を敢行した。
  タイヤが悲鳴を上げて、ついでにルットと気弱男も悲鳴を上げた。
  おしりを振ったパトカーが、駐車してある車に向かって、まっしぐらに突き進み始めたのだ
 から無理もない。あたしだって必死に悲鳴を飲み込んだくらいだ。
  ハンドルを切る。
  ええい、手錠が邪魔!
  処置も虚しくパトカーは激突して、おんぽろセダンをふっとばした。
  が、こっちのダメージは驚くほど少ない。衝撃も殆どこなかったし、ここから見える限り車
 体にも損傷はないようだ。流石パトカー、税金を注ぎ込んで作られた特注だけのことはある。
  ちらと視界の隅で捉えると、ぼろセダンは様々な部品を撒き散らして独楽のように躍ってい
 た。
 「おれの車が…」
  オヤジが引きつれた呻きを漏らした。
  してみるとあのぼろセダン、オヤジの個人所有車らしい。
  因果は巡るって、ほんとにあるもんなんだ。
 「ざまをみ!」
  つばを飛ばしてあたしはパトカーを驀進させた。
  駐車場を抜けて、国道十四号線に問答無用で飛び出した。
  別名産業道路と呼ばれるだけあって、早朝で空いているとはいえ大型車両も数多く走ってい
 るこの路線、はっきり言ってひやひやものだったけど、幸運なことに乗用車が何台か急ブレー
 キの音を響かせる程度で済んだ。一歩間違えばいくらパトカーでも潰されていただろう。ふん、
 やけくそになったあたしは見境がつかないんだよ!
 「アズサ!」
  ルットが叫んだ。
 「わかってるよ」
 「わかってないよ、こっち、ダメ!」
 「なにがさ?」
 「千葉は半島だよ? こっちに行ったら逃げ場、ないよ!」
  言われて気がついた。
  あたしは国道十四号線を下っている。
  なんとなく逮捕された方には行きたくなくて、無意識の内に逆方向へと車を向けていたのだ。
  国道十四号線を下ると、道は斜め左後方から流れてくる国道十六号線へと移行する。それは
 千葉県の東京湾沿いを南下して、とどのつまりは千葉県の最南端に近い富津に行きつく。ルッ
 トの言う通り千葉県は半島だから、まるっきり袋のネズミになってしまうのだ。非常線でも張
 られたら、再度北上して逃げることなど到底不可能だ。昔は木更津から東京湾を横断して神奈
 川県の川崎に辿り着くアクアラインとかいう横断橋があったらしいけど、そんなもの、地震で
 壊滅して残ってなんかいない。
  ううむ。
  あんまりいい状況じゃあない。
  そうなると手段はみっつ。
  ひとつはどこでもいいから脇道に入って、市内を突破する方法。もうひとつは国道十六号線
 との合流地点で進路を変え、十六号線を東京方面に向かう方法。ただしそのどちらにしても混
 雑した市の中心地を突破しなければならないし、後者は混雑という点では多少ましかもしれな
 いが、主要道路であるから封鎖されている危険性もある。高速道路を使用するなんてのも論外
 だ。
  だとすると最後の手段は――。

 

  3.

 「アズサ!」
  バックミラーに赤色灯がいくつも閃いた。
  もう追っ手が掛かってしまったのだ。
  流石に県警本部から逃走というのは無理があったかもしれない。
  これで最後の手段、この場で無理やりターンして北上するという案も棄てざるをえなくなっ
 た。
 「仕方ない、いけるとこまでいくよ!」
  アクセルを踏み込み、目の前で赤になった信号を強行突破する。クラクションが華を添えた。
  しかしながら、である。
  後方から迫りくる赤色灯はその数を増し、どんなに頑張っても距離を開けられない。どころ
 か、着実にこちらを追い詰めつつあるのだ。時速は一七○キロに近い。あたしの腕ではこれが
 限界だ。しかも両手が不自由ときている。
 「あれ、全部インターセプターだよ」
  ルットが不吉な事実をあたしに告げた。
  つまり県警が追跡に繰り出したのは追跡専門のパトカーなのである。数はニ○に近い。保有
 している全車両に違いない。こっちのノーマルパトカーはどんなに頑張っても二五○キロしか
 出ないところを、インターセプターは排ガス規制などお構いなしの大馬力エンジンにものをい
 わせて、軽く三七○キロを超えるスペックを保有している。この際腕の良し悪しは抜きにして
 も、絶対に勝てっこない。
 「こいつは親切心で言うんだがね」
  オヤジが口を開いた。
 「逃げきれっこねえ。諦めるってのはどうだ?」
 「連れ戻されたら殺されるのに? 冗談はやめて。どうせなら死ぬまで突っ走って、あんたら
 を道連れにしてやるわ」
 「おれには女房子供がいるんだ」
 「弾丸を撃ち込みたい奥さんが、でしょ!」
  オヤジの言葉を受け流して、またしても信号を突破する。今度はあおりを食らった乗用車が
 あらぬ方角へすっ飛んでいくのが見えたけど、結果までは見定められなかった。恨むんなら警
 察を恨んでちょうだい。
  急加速した一台のインターセプターが、あっという間にこっちのお尻に食いついた。
  すい、と横に出てハンドルを切り、鼻面でこっちの後輪の辺りを突っつく。
  あたしはバランスを崩して危うくスピンに入りそうな車をなんとか制御する。
 「ルット、撃って!」
  必死の形相で叫ぶと、
 「銃なんて撃ったことないよう」
  情けない声が返ってきた。
 「いいからやるの!」
  ちらと振り向いて、ルットとオヤジに牙を剥く。オヤジに対するそれは、ルットが気を逸ら
 せたからといって妙な真似をしたらただじゃすまないよ、という脅しだ。オヤジは肩を竦めて
 みせた。意外と度胸があるのかもしれない。
  インターセプターが再攻撃を仕掛けようとしている。
 「ルット!」
 「わかったわよう…」
  渋々ながらもルットは窓を僅かに開け、そこから斜め後方に向けて銃を突き出した。
 「えい!」
  という間の抜けた声に重なって、こればかりは流石に耳に堪える銃声が響く。
  途端にインターセプターが急ハンドルを切り、みるみるうちに後落していった。
 「やったあ!」
  ルットがはしゃいでいる。どうやら当てたらしい。あんな不自由な態勢でよくも当てたもの
 だ。聞きかじった知識によれば、素人の扱う拳銃の命中率なんて、ないに等しいらしい。元よ
 り拳銃は、飛び道具といえども接近戦用の武器なのだ。目標が大きいとはいえ、これはきっと
 まぐれに違いない。
  インターセプターは態勢を立て直したが、距離をとってこちらに近づこうとしない。致命傷
 は与えられなかったようだが、脅しにはなったようだ。追跡専門の向こうの車両は、軽量化の
 ために装甲が施されていない。滅多な場所に弾丸を食らえば、即命取りだ。それに引き換えこ
 ちらのパトカーは、ノーマルとはいえ、それなりの防弾処置が施されている。連中が発砲して
 こないのも、それを知っているからだろう。それともこちらに警官の人質がいるからだろうか。
 「アズサ、車をもっと左に寄せて」
  ルットが言った。
 「なんでよ?」
  あたしはハンドルを切って数少ない一般車両を追い抜き、そして赤信号を突破するのに必死
 だ。
 「もう一発撃っちゃうから」
 「ちょっと、調子にのるんじゃないよ」
 「いいから、はやく!」
  まぐれ当たりに気をよくしたルットは、後からドライバーズシートを揺すってくる。
  ええい、なんてやつだ。
  仕方なく車を左に寄せて右後方の視界を確保すると、なんとルットは全開にした窓から上半
 身を乗り出して銃を構え始めたではないか。
  続けざまに二度の銃声が響き、バックミラーの中でインターセプターがもんどりうってスピ
 ンに入った。後続のインターセプターは脱落した仲間をかわして衝突を免れているが、流石に
 肝を冷やしたらしく、益々こちらとの距離は開いた。
 「すげえな…」
  オヤジがぽつりと漏らした。
  あたしだってびっくりしてる。
  しばし眼が点になっていたが、そうもしていられなくなった。
 「ルット!」
  大声で叫んで更に車を左に寄せる。路肩ぎりぎりだ。
  呼びかけに気付いたルットは、ふと正面に顔を向けると、悲鳴を上げて車内に上半身を引き
 込んだ。
  一瞬後、いままでルットのいた空間を、大型のトレーラーが轟音と共に猛烈な勢いで通過し
 ていった。対向車ではない。かといって向こうが追い抜いたんでもない。こちらが向こうを追
 い抜いたのだ。速度差がありすぎる。一歩間違えばルットの上半身は消えてなくなっていただ
 ろう。スピードメーターはいつの間にかニ○○キロを超えている。つまりあたしの腕の限界を
 三○キロも超えているのだ。
 「死んじゃうとこだったよ!?」
  ルットの抗議をあたしは無視した。あたしの忠告を無視したのはルットだ。これでチャラだ。
  しかしこのままじゃ遠からずルットの言葉とおりになってしまうだろう。
  決め手には欠けているとはいえ、追跡者はどこまでも追ってくるだろう。そして決め手に欠
 けているのはこちらも同様ときている。いずれ追いつかれて停車させられるか、さもなきゃこ
 っちが自爆するしかない。
  正面に寒川橋が見えた。あそこを過ぎると十四号線は十六号線となる。
  ちらと脳裏に、やはり方向を変えて十六号線を北上しようかという考え浮かんだが、こちら
 の方向から十六号線を北上しようと思ったら、合流地点で九○度以上の鋭角極まりない左旋回
 を実施しなくてはならない。心情的には殆ど一八○度に近いターンだ。この速度ではとても無
 理。
  などと思っているうちに、あっさりと合流地点を過ぎてしまった。こうなったら十六号線を
 南に向かってひたすら走るしかない。
 「過ぎちゃったね…」
  ルットが言った。
 「どうするの?」
 「どうするって――」
  なにかが頭の中で閃いた。
 「どうしたの?」
  突如として言語を失ったあたしに、背中からルットが訊いた。
 「なんでもない…」
  唾を飲んで、閃きを吹き飛ばした。心臓が跳ね回っている。
  ちらと助手席を見ると、黙りっぱなしの気弱男が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
  あたしは肩を揺すって平静を装った。
 「おいおいおい!?」
  突然後席でオヤジがすっとんきょうな声を上げた。
 「何事よ!?」
  怒鳴ると、
 「あいつらおれを見捨てやがった! 畜生が!」
  オヤジはリアウィンドウに張り付いて、後方に向かい罵りの叫びを上げている。
  ルームミラーで確認して、あたしにもその理由がわかった。
  一五○メートルほど後方に食いついたインターセプターの助手席から、警官が一人身を乗り
 出している。
  不吉なそのシルエットは、確かに両手になにかを構えていた。
  ごつい基部に、長い銃身。
  対ハードスキンライフル。
  背筋が粟立った。装甲車だってぶち貫く徹甲弾を撃ち出す物騒な代物だ。あんなもんを食ら
 ったら、パトカーの装甲なんて紙以下。三台まとめてぶち貫いたっておつりがくる。
 「散々警察のために働いてきたのに、恩を仇で返すつもりかよ!」
  オヤジの泣き言に、あたしは状況も忘れて溜飲の下がる思いだった。あんなヤバイ武器、現
 場の判断じゃ流石に使えない。本部のお偉いさんからの指示によるものだろう。お偉いさんと
 なれば自分たちが裏でなにをしているのかも理解しているはずだ。要するにこのまま逃げられ
 て事が明らかになるよりは、あたしたち諸共オヤジも葬ってしまおうというはらだ。
  となりで気弱男が頭を抱えていた。
  なにかをぶつぶつ言っていると思ったら、
 「なんで僕までが…」
  と繰り返していた。
  初仕事。
  不運なやつだ。
 「伏せて!」
  あたしは叫んだ。
  伏せたって意味はないけど、それでも直接視認で狙い撃ちされるよりはましだろう。
  あたしも出来るだけ姿勢を低くして、アクセルを踏み込む。
  ハンドルを小刻みに切って車体を左右に振る。
  今くるか、次にはくるか――。
  がん、という打撃音に、金属の引き千切れる音が重なった。
  途端にお尻の下にいやな振動が生まれる。
  ハンドルをしっかり押さえていないと、どこかへ吹っ飛んでいっちゃいそう。
 「無事!?」
 「生きてるよ」
  ルットが応えた。
  気弱男もオヤジも無事らしい。
  弾丸がどこに当たったのかははっきりしないけど、どうやら車軸かなんかにダメージを与え
 たらしい。スピードが若干落ちて、操縦の自由が多少利かなくなってきた。
 「あんなの何発ももらったら、ただじゃすまないよ」
  ルットが言った。
  そんなことわかってる。一発だって相当ヤバイんだ。
  あたしは右眼で前方、左眼でルームミラーを覗くという器用な真似をしながらタイミングを
 測った。
  ライフルを構える警官の動きが固定された。
  暴れるハンドルを右に切る。
  リアウィンドをぶち貫いた弾丸が、フロントフィンドを破って飛び出していった。一瞬前ま
 でそこにはあたしの頭があった。おしっこちびりそう。――ちょっと濡れちゃったかもしれな
 い。
  すっぽ抜けた弾丸は、なんとも不幸なことに遥か前方を走行していたダンプカーに当たった
 らしい。ふいによろめいたダンプカーは、左脇の電柱に頭を突っ込んでもんどりうった。すり
 抜けながら視線を飛ばすと、運転手はなんとか無事らしいことが確認された。
  ほっと気を抜いたのがまずかった。
  どだい、他人の心配をしている場合じゃないのだ。
  第三弾をもろに食らった。
  どこに当たったのか、すぐに理解することになった。
  デジタル表示の燃料計が、恐ろしい勢いでカウントダウンしている。
  意味するところはひとつ、弾丸は燃料タンクを貫いたのだ。目下の幸いはライフルから発射
 されるのが単なる徹甲弾のみだということ。これが炸裂弾や焼夷弾だったら、引火して木端微
 塵になっていたかもしれない。流石にノーマルパトカーには自動消火装置や自動閉塞タンクは
 装備されていないのだ。
  とはいえ、危機的状況は更に深まった。燃料だだ漏れじゃ、遠からず身動きがとれなくなる。
 多分、あと保って十キロってところだろう。
  また弾丸がどこかに当たった。未だに人的被害が出ないのは奇跡だ。単発式のライフルなの
 で、発射速度が遅いのが唯一の救いだ。それでもこう撃たれ続けていたんじゃ、拳銃で応戦す
 るわけにもいかない。
  狙撃手を乗せたインターセプターが、ぐうっと加速してきた。
  こちらが反撃出来ないのを知ってか、それとも業を煮やしてか、直接ケリをつけるつもりら
 しい。
  十六号線に入ってしばらく走っている。このまま走るともうすぐに蘇我陸橋だ。
  その先にはなにがある?
  なんにもありゃしない。
  いよいよここまでか。
  ぞくりとした。
  ふたつの意味でだ。
  閃きが再び脳裏を過り、思い出しかけたなにかを記憶の淵にぶら下げた。
 「撃ってくるよ!」
  風穴の空いたフロントウィンドがうるさい。ルットがそれに負けないように叫んだ。ルーム
 ミラー一杯に銃口が写った。
  頭の中に波紋が広がったような気がした。
 「決めた!」
  あたしは叫んでブレーキを踏んだ。
  真後ろに着こうかとしていたインターセプターが、慌てて回避行動をとる。
  その隙に急加速して、とりあえずの距離を稼ぐ。
 「なにが!?」
  ルットが荒っぽい減加速にバックシートを転がりながら叫んだ。
 「川鉄にいくよ!」
  一瞬間が空いた。
 「川鉄!?」
  ルットが悲鳴を上げた。
  オヤジも、気弱男も同じ台詞で叫んでいた。
  三人の声に、あたしは頷いた。
 「こうなったらあそこに逃げ込むしかないよ!」
 「ダメ、それはダメだよアズサ!」
 「他に手がないんだから、しょうがないじゃない!」
 「でも――」
  今度はオヤジがしゃしゃりでた。
 「まってくれよ、あんたらはともかく、あそこにおれたちが入ったら絶対生きて出られねえ!」
 「か、勘弁してくださいよ…」
  気弱男までが真っ青な顔でオヤジに加勢した。
  あたし自身多いに迷った――というより、すっかりそんな選択肢があるということを忘れて
 いたくらいだ。いや、忘れようとしていたのかもしれない。閃きに勢いだけで身を任せたのだ
 から、正直不安は山盛りだった。ところが三人から口々に反対されると、これがどうして、む
 らむらと反発心が沸いてくる。
 「うるさい! 決めたっていったら決めちゃったのよ!」
  尚も懇願を続ける連中に言い捨てて、あたしはやけくそ気味に更にアクセルを蹴りつけた。
 「なあ、頼むよ、この通りだ!」
  しつこくオヤジが食い下がる。
 「あんたねえ、自分で見捨てられたっていったじゃない! 警察に捕まればどのみち口封じで
 チョンよ! 川鉄に行って死ぬのとどっちがいい? 大体あたしには、あんたらの身の安全を
 護る筋なんかないんだから! これ以上ごたごた抜かすんなら、この場であたしが殺してやる
 わ!」
  我ながら滅茶苦茶な物言いだけど、真意なんだから仕方がない。
  オヤジにしてみりゃ仕方がないではすまないだろうけど。
 「冗談じゃねえ、あんなところでまともな死に方が出来るかよ! 一寸刻みにされた挙句、生
 きたまま埋められかねねえ!」
 「あんた得意なんでしょう!? ――ルット!」
 「う、うん…」
  歯切れの悪い応答とともに、それでもルットはオヤジに拳銃を突きつけて牽制した。今回の
 あたしは完全にルットのお株を奪っている。尤もあたしのは思いきりがいいんじゃなくて、自
 棄の大安売りみたいなもんだけど。いつだったかあたしを称して破滅型だとルットが述べたこ
 とがあったっけ。
  どちらにしろ、問答をしているひまはない。
  後からはライフルの弾丸、行先は袋小路、おまけにそこまで辿り着ける燃料もない。
  なにより川鉄は眼と鼻の先なのだ。この場所に川鉄あったから、最後も最後、一歩どころか
 身じろぎしただけで地獄へ直行してしまうような案を思いついたのか、それともこの場所に川
 鉄があったからあたしは十六号線を南下してきたのか。――たぶん前者だ。いくらなんでもこ
 んなところに逃げ込もうなんて、少なくとも県警を脱出した直後の状況では考えるはずもない。
 「見えた!」
  あたしは宣言した。
  実を言えば、少し前から右手に道路と平行に走る高い塀が見えていたのだが、あたしが確認
 したのはそこに設けられた出入口のことである。尤も出入口とはいっても、そこはニ重のバリ
 ケードで塞がれている。外側には公的組織の手による整然とした立ち入り禁止のもの、内側に
 は鉄パイプやがらくたで作られた雑多なもの。とにかく恒久的に人を寄せつけないための手段
 が講じられている。その限りではあれは決して出入口ではないし、世間様の認識もそうなって
 いるだろう。
  あたしはそこへ飛び込もうというのだ。
 「アズサ…」
 「いくよ!」
  ルットの最後の逡巡をかき消して、あたしはハンドルを思いっきりぶん回した。
  タイヤが派手に悲鳴を上げ、サスペンションが横倒しになりそうな車体をなんとか支える。
  カウンターを当てながらアクセルを踏み込むと、あっという間にバリケードに突っ込んだ。
  ぐしゃ、だの、ぽき、だの、そこら中で喧しい雑音が鳴り響き、すぐに後方へと流れていっ
 た。
  勢い余ったパトカーは、バリケードの名残を纏わりつかせたまま、ニ回ほどスピンを披露し
 てから停止した。
  息をついて頭を上げる。
  同乗者三名ものそのそと辺りを見まわした。
  ひび割れたアスファルトのど真ん中。
  かつては正門から構内へと続いていたであろう広大な車路には、車どころか人の姿も見えな
 い。
  視線を返せば、いましがた突破したばかりのバリケードの向こうに、十六号線が朝日を受け
 て輝いているのが見えた。
  ここにだって陽光は射している。
  でも、それはいままでとは違う光だ。
  物音すらしない。
  錆の臭いが鼻をついたような気がした。
 「お、おい…」
  オヤジが情けないこと夥しい声音でそう言った。
  あたしは無視した。
  いま口を開いたら、同じような声しか出ないに違いない。
  現世から、ブレーキの音が団体でやってきた。
  バリケードの向こうで、インターセプターが次々に急停車している。
  わらわらと車から降り立った警官は、しかし何かに気圧されたようにそこに立ちすくんでい
 る。どの顔にも複雑な表情が浮かんでいる。嫌悪とも憎しみともとれるし、安堵のそれに見え
 ないこともない。どちらにしても思惑は図にのった。思ったとおり、連中はこちらには入って
 これないのだ。
 「出て来い!」
  誰かが車に積んでいたらしい拡声器でそう言った。
 「さもなければ撃つ!」
  警告もなしに散々ぶっ放しておいてよくも言えたものだが、撃たれてはかなわない。人間は
 入ってこれなくとも、弾丸は別だ。
  但し、連中が本気であたしらを射殺しようと思っていないことは明かだ。少なくとも自らの
 意思で川鉄に入った者に外部の者が手を出せば、どんな事態を招くかわからない。
  連中はあたしらを追い込みたいのだ。
  川鉄の奥へ。
  この世界にあたしらの命を預けたのだ。
  パトカーの周囲に火花が散った。決して当たることのない銃弾が跳ね回っている。
  あたしは停止していたエンジンを再スタートさせると、川鉄の構内へと向けてパトカーを走
 らせた。
  後方でこちらを見送る警官隊からは、ついにその後の勧告は聞かれなかった。
  こちらの車内にも口を開く者はいなかった。
  あたしはとろとろとパトカーを走らせる。
  いくつかの角を曲がり、路地を横切った。
  周囲を圧するのは朽ち果てたプラントであり、巨大な倉庫であり、どんな目的の為に建造さ
 れたのかわからない、建物や機械の連なりだ。
  それらすべてが奇怪に歪み、赤錆に塗れ、そこかしこを走るパイプは絡み合った蔦のように
 行く手を遮り、ある場所では唐突に空き地が広がったりしているが、その先にはまたしても同
 じような景観が蹲っている。
  何もかもが停止した世界。
  郷愁にも似た感慨を抱いてしまう。
  ここ、どこだろう。
  あたしはなんとか頭の中に地図を描こうとしたけど、それは徒労に終始した。
  だだっ広い敷地に数限りなく建てられている建築物。どれも朽ち果てかかって同じように見
 えるし、全部違うようにも見える。下手をすると自分がどっちを向いているのかさえわからな
 くなる。
  どこをどう走ったのか、立ち並ぶ倉庫と倉庫の間の狭い路地に辿り着いたとき、エンジンが
 疲れ切ったような溜息をついた。
  ニ、三度パトカーはノッキングを繰り返し、そしてぴたりと停止した。
  ついに燃料が切れたのだ。
  僅かなエンジン音さえ消え、しんとした静けさだけが周囲を満たした。
  あんまり静か過ぎて耳がいたいくらいだ。
 「無茶だよ」
  沈黙に耐えられなくなったのか、今更のようにルットが言ったのはどれくらい経ってからだ
 ろうか。
 「でも、とりあえず助かったでしょう?」
 「とりあえず、な」
  オヤジが陰気に言った。
  そんなこと、言われなくったってわかってらい。
  あたしだっていまになってみれば、なんて無茶なことをしたんだと後悔してるんだ。
  悔しいからそんな素振りは見せないけどさ。
 「とにかく、もう戻れないんだよ。ここでなんとかする方法を考えよう」
 「もう、戻れない…」
  気弱男が面目躍如の有様で繰り返した。
 「ほんとうに戻れないんですか?」
  そうオヤジに訊いた。
  オヤジはくそ、と呟いて、
 「おしまいだ」
  と重々しく宣言した。
  なまじっか声が渋いだけに、いやに説得力がある。
  あたしは萎えそうになる気力を振り絞った。
 「おしまいになんかさせやしないわよ!」
  からん、と背後で音がした。
  四人分の視線がそちらに向けられた。
  誰もいない。
  いないが、そこに不自然なものを見た。
  風は吹いていない。
  それなのに、いましがた投げ捨てられたように路面を転がっているのは。
  ひしゃげた空缶だ。
  からん、からん、と転がり、空缶は止まった。
  誰かがごくりと喉を鳴らした。
 「あ!」
  正面に視線を返したルットが息を呑んだ。
  あたしは振り向いた。
  五○メートルほど前方に男が一人いた。
  擦りきれたジーンズに革のジャンパーを着込んだ若い男だ。
  そいつが道の真ん中にあぐらをかいて座っている。
  じっとこちらを見ている。
  値踏みするような視線からは、しかし殊更の感情もよみとれない。
  ちゃり、と新しい音がした。
  再び後方に眼をやると、そこにもまた男がいた。
  首からチェーンをぶら下げた、上半身裸の男だ。
  さっきの男はともう一度正面に顔を向けると、なんとそこには五人の男が声もなく現れてい
 た。
 「どうなってるの…」
  ルットの声がした。
  後方の男の数も増えていた。
  気がつくと、左右の倉庫から次々に人影が現れてはパトカーを包囲し始めていた。
  総勢おそらく五十名以上。
  男もいる、女もいる。
  若いやつも、年寄りもいる。
  誰一人声を出さない。
  じっとこちらを窺っている。
  ついに現れた。
  川鉄の住人。
  支配者たちだ。

 

  4.

  川鉄――川崎製鉄株式会社。
  研究、開発、発電、物流など、関連グループ四八社以上を数える、国内どころか世界的にみ
 ても屈指の一大企業である。その前身は一八九六年に創立された川崎造船所であり、後に川崎
 重工業と改称、そこから独立して発展を遂げた製鉄部門が、現在の川崎製鉄にあたる。
  その川崎製鉄が一九五三年、戦後始めての近代的製鉄所の第一号として、全国に先駆け千葉
 県湾岸の埋立地に建設したものが、川崎製鉄千葉製鉄所だ。数基の高炉から産み出される鉄鋼
 は日産二万四千七○○トンに達し、その他の関連製品まで勘定に入れると、地球に眠る鉱石は
 無尽蔵なのではないのかと錯覚を覚えるほどだ。
  千葉製鉄所はその莫大な生産能力を保つ施設を収容すべく、広大な敷地面積を保有している。
 具体的には約八千七○○平方キロメートルという破天荒な数字だ。ぴんとこないが、とてつも
 なく広いということだけは誰にでも理解出来るだろう。尤も外見からはどこからどこまでとい
 う区切りを把握することは出来ないし、商業地や住宅地とは国道十六号線によって隔てられた
 京葉工業地帯の一画に存在しているので、普段からその面積を頭に入れている人間は少ないだ
 ろう。
  それでも県下有数の大企業ということで、お膝元である千葉市民は元より、千葉県民にもそ
 の名は広く知れ渡っていた。川崎製鉄は福利厚生などにも力を入れており、中でも社会人野球
 のチームは、度々全国優勝を果たすほどの実力を有していた。そこからプロ野球にも多くの選
 手を輩出している。そんな理由もあって、人々は往々にして嫌忌される大企業、それも鉄鋼業
 という環境汚染とは無縁ではない企業に対して、例外的ともいえる反応を示していた。川鉄と
 いう愛称を、親しみと誇りを込めて口頭に上らせていたのである。
  だがしかし、それは過去のことだ。
  川鉄は――京葉工業地帯は壊滅した。
  元より危険物が大量に蓄積されていた京葉工業地帯である。もちろんだから、耐震性には殊
 更の注意が払われていたが、いかんせん直下型の大地震に太刀打ちするには、少々荷が重過ぎ
 た。埋立地特有の液状化現象も崩壊に拍車をかけた。施設は半数以上が倒壊し、備蓄されてい
 たありとあらゆる種類の可燃物質が炎となって逆巻いた。千葉県を筆頭に首都圏に被害を与え
 たその地震で、最も多くの死傷者を数えたのが京葉工業地帯であった。
  震災後の復興は立ち遅れた。なんとか消火には成功を収めたものの、甚大な被害を修復する
 余力は、人々には残っていなかった。経済活動よりは、人々の生活を保護しなくてはならない。
 国の援助は人々の胃の腑を満たし、寒さから身を護る術に費やされた。各企業としても事後処
 理に忙殺され、おいそれと修復出来るような有様ではない施設に、手は回せなかったのである。
  それでも一年が過ぎ、二年目に入ると、荒廃していた工業地帯にも復興の明りが灯され始め
 た。だが、事前調査のために訪れた人々を迎えたのは、破壊された無機質な空間だけではなか
 ったのである。敵意ある眼。縄張りを死守せんと躍起になった者たちの、激しい抵抗が待ち受
 けていたのだ。
  最初に無人と化した工業地帯に入り込んだのは、おそらく家を失った人々だろうと考えられ
 ている。充分とはいえない国の援助にあぶれ、生活を再建することの出来なかった者たち、或
 いは様々な事情により、これを御破算の絶好の機会とし、世を捨てて身を隠そうとした者たち
 が、当座の仮住まいとして、隠れ里として、倒壊を免れた施設に眼をつけたのだ。
  そのうちに、工業地帯に流れ着く人間の質にも変化があらわれ始めた。いいアジトになると
 暴走族が屯し、人の眼を嫌う者が取り引きの現場にし、追われている犯罪者が逃げ込み始めた。
 国家権力の手が回らない空白地帯は、彼らにとって絶好の隠れ処となったのである。
  世間の人々がそのことを知ったのは、だから調査団の人々が或いは死亡し、或いは重傷を負
 って、息も絶え絶えに逃げ出してきたそのときであった。かつて香港に悪名を轟かせた九龍に、
 勝るとも劣らない暗黒地帯が形成されていることを、遅まきながら知ったのである。
  当然警察が動いた。不法占拠者を排除すべく、実力を行使した。その実力行使に占拠者も実
 力をもって抵抗を謀った。ある者は鉄パイプを持ち、ある者は自らの手により修理の成った建
 設機械を操り、ある者は大量に持ち込まれていた銃器を手に蜂起したのである。
  夥しい死傷者が両陣営に発生した。十数度に渡る衝突は、一年以上も続いた。それでも勝利
 を納めつつあるのは警察だった。元より一般市民であった占拠者は、これではかなわんとばか
 りに工業地帯を後にしていった。
  だがそれが、警察にとっての不幸ともなったのである。淘汰された土地に居残ったのは、何
 れも一癖も二癖もあるような連中ばかりとなったのだ。彼らは次第に集結を始めた。未だ復興
 の手が入っていない川鉄に、勢力を強めながら集結していった。それどころか、この期に及ん
 で、更に外部からの参入者も後を断たなかった。それらすべてが覚悟を決めた連中なのだから
 タチが悪い。
  川鉄はさながら傭兵部隊の護る要塞と化した。これでは警察も迂闊には手を出せない。周囲
 の施設が次々と再稼動を始める中、川鉄だけが取り残された。――そしてついに、川崎製鉄は
 千葉製鉄所の放棄を決定した。丁度海外に大規模で効率のいい製鉄所を建設した折りでもあり、
 このまま広大な土地を持て余し、再建に莫大な費用を投じるよりはと判断したのである。
  川鉄は県警の不甲斐なさを糾弾し、千葉県に対して、千葉製鉄所跡地を買い取るよう求めた。
 これより先、四度も県知事の頭が挿げ替えられる騒乱を経て、結局川鉄の意向が全面的に認め
 られ、千葉県は大枚を叩いて千葉製鉄所跡地を買い取ったのである。
  そして千葉県は、前代未聞の決定を下した。曰く、川鉄跡地に一切の手出し無用というお触
 れである。当然それには反対の声も上がり、実は未だに全国からは前言を撤回せよとの意見が
 寄せられているのであるが、千葉県、そして千葉県民は、そんなものは何処吹く風と決め込ん
 でいる。
  理由は簡単だ。川鉄に潜り込んだ連中は、決して外界に出て犯罪を引き起こそうとしなかっ
 たのである。彼らにしても警察と悶着を起こし、流血沙汰になることを好まなかったのであろ
 う。わざわざそんな所に茶々をいれ、寝た子を起こすような真似は得策でないに決まっている。
 なによりも社会悪とされる人々が自ら隠居してくれるというのだ。これは秩序のためにも好都
 合ではないか。
  そんな経緯をもって世間から隔離された土地となった川鉄には、相変わらず追われる身とな
 った犯罪者が逃げ込むことが多々あった。しかしながら震災後ニ十年を経たころになって、そ
 んな体制にも変化が見られ始めた。川鉄内で生まれた第二世代の台頭により、新たな参入者を
 余所者として排除しようという気風が高まったのだというのだ。彼らは川鉄内に街と呼べるよ
 うな社会を形成し、発電施設を建造し、痩せた土地を耕し、自給自息の体制を作り上げていた。
 資材搬出入の目的で設置されていた港を使い、外部からやってくる密輸船と取り引きをしてい
 るという事実も周知の事柄だ。代金はかつての犯罪者が持ち込んだ金品であったり、物々交換
 であったり、栽培、抽出されている薬物であったり、その身を匿ってやるという交換条件であ
 るらしい。それらの事実は航空写真などからも明らかだが、現在は川鉄上空を飛行する航空機
 はない。一機の偵察機が地対空ミサイルという、凡そ民間とは縁遠い代物に撃墜されたことが
 あるからだ。もはや川鉄は何があるかわからない伏魔殿である。
  そんな風に確立された世界にあって、こればかりは人間どんな立場にいようともかわりはな
 いという証明にもなるが、安定した生活を脅かす余所者の排除という末期的気風が生まれたと
 いうのも、実に尤もらしい話ではある。もちろんこれは風の噂でしかなく、真意を確かめるこ
 とは事実上不可能に近い。それでも川鉄から放り出されたという人々――その多くは瀕死の状
 態だったという――によれば、彼らは余程のことがない限り、新参者を迎え入れはしないと宣
 言していたというのだ。その後も、おそらくは決死の覚悟で川鉄に身を投じたであろう者は後
 を断っていないが、それが何を裏付けるものか、ある者は敷地外で死体となって発見され、あ
 る者はようとして行方がわからなくなっている。
  この頃から世間は川鉄の存在を記憶の中から消去し始めた。犯罪者の巣窟としての川鉄。そ
 れが自分たちの手の届かない、そして考えも及ばない独立した体制を設けた土地となったので
 ある。もちろん誰だって川鉄の名は知っている。が、滅多なことではそのフレーズは浮かび上
 がってこないのだ。思い出さざるをえないという不幸な状況に陥った者は、おそらく異質な世
 界に恐怖を覚えつつ、我が身を呪ったことだろう。人間の心は、死や異常と向かい合って生き
 るには、少々脆すぎるのだ。
  人々に忘れ去られて――それが偽りだとしても――十年。
  震災より数えて三十年。
  五千人とも一万人ともいわれる川鉄の「住人」たち。
  まさかこの眼で見ることになろうとは夢にも思っていなかった。
  そんな夢みたら寝覚めが悪くてしょうがない。
  いや、夢ならまだいい。目覚めれば終わりだ。
  ところがいまのあたしときたら、ぱっちり冴えた眼で何を考えているんだかわからない視線
 を受け止めているときた。ぐるりパトカーを取り囲んだ連中はどこかくすんで見えて、確かに
 ここが外界とは違うことを示しているようだ。そんな連中が微動だにせず、或いはゆらゆらと
 揺れながら、思い思いの姿勢で無言の観察を続けているのだ。心細いことといったらこの上が
 ない。
 「じ、銃をよこせ」
  オヤジがかすれた声で言った。自分の立場をまるっきり無視した科白だ。
 「馬鹿いわないでよ。一戦やらかして勝てるつもり?」
 「違う、てめえの頭にくれてやるのさ。あんな連中に殺されるくらいなら自殺した方がましだ」
 「止めはしないけど、あたしのいないところでやってよね。あんたの頭が吹っ飛ぶところなん
 て見たくもないわ」
  こそこそやりあっていると、ふいに前方の人垣の中からひとりの男が歩み出た。手作りらし
 い革のパンツとジャケットを羽織っている痩せ過ぎのひょろ長い体躯からは、それでもナイフ
 みたいな気配を漂わせている。しかも錆びたナイフだ。年齢は気弱男と同じ位だから、好対照
 と言えるかもしれない。
  男はニ、三歩で脚を止め、くい、と顎をしゃくった。
  どうやら車から降りろということらしい。
 「どうしよう?」
  ルットが言った。
  どうもこうもない。主導権は向こうにある。
 「降りよう」
  気は進まないけど仕方ない。あたしはゆっくりとドアを開いて川鉄の地に立った。ルットと
 警官ふたりもそれに倣い、次々に車から降りた。錆と油と退廃の匂いが鼻腔を突いた。
  と――。
  あらゆる事態を想定はしていたけど、流石にこいつは予想外だった。ルットなんかぽかんと
 している。いや、多分あたしだって同じだろう。
  ぱち、ぱち、と、さざらに聞こえてくるのは、間違いなく拍手の響きだ。
  何を考えているのか、あたしらを包囲している連中が、のっそりと、不規則な拍手を贈って
 いるのだ。対象は――あたしら。きっと墓場でゾンビに取り囲まれて、そいつらに拍手された
 らこんな気分になるだろう。はっきり言ってきもちわるい。おしりがムズムズする。
 「ようこそ」
  拍手が止んで、あたしらを降車させた男が言った。声まで錆びている。
 「――と、言いたいところだがね、えらい車で乗りつけてくれたじゃないか。私たちを馬鹿に
 しているのかい?」
  確かに。
  パトカーで川鉄とはとんでもないハナシだ。
  警官二人が身を硬くした。
  男はあたしとルットの手錠に眼をやり、
 「君たちは犯罪者か。するとそちらの方々は警察官?」
 「待ってくれ!」
  オヤジが叫んだ。
 「おれたちはこのお穣さん方の人質にされてるんだよ! だから立場的にはもう警察官じゃな
 い!」
 「確かに。犯罪者の人質にされて生きているなど、警察官にはあるまじき失態だな」
  ぞくりとした。
  オヤジも顔色を失った。
  そうさせるだけの気配が男の言葉にはあった。
  あたしは思わず手にしている拳銃の感触を確かめてしまった。
 「あ!?」
  ルットが驚きの叫びを上げた。
  あたしも同じだった。
  いつの間にやら忍び寄っていた人影が、あたしとルットの手から、いとも容易く拳銃を奪い
 取っていた。どちらもぞくりとするような妖艶な美女である。ルットなんかついでにとばかり
 にほっぺたをぺろりと舐められ、あう、と色っぽい喘ぎまで漏らしている。
 「すまないが、部外者の銃器の携帯は許可出来ないものでね」
  男が優しげに言った。
  言って、ポケットから取り出した煙草に火を点けた。
  煙草を吸う人間なんて生まれて始めて眼にした。
  煙草なんて吸ったら、呼吸器や循環器、その他関連が裏付けられている疾患の治療に保険が
 適用されなくなってしまう。尤もここの連中が健康保険に加入しているとは思えないけど。
  紫煙を吐き、
 「どちらにしても君たちはここに来るに足る事情を抱えているようだね」
 「そ、そうよ、だから少しの間だけでも匿ってもらえない?」
  男は残念そうに頭を振った。
 「申し訳ないが、そうもいかない。ここの生活も厳しくてね、おいそれと人口を増やすわけに
 はいかないんだよ」
 「おいそれとってことは、おいそれとじゃなかったらいいの?」
  男は声を出さずに笑った。
  ひとしきり肩を震わせた後に口を開いた。
 「面白い言葉を使うね、君は。だがその通りだ。それなりの資質があるか、さもなければ我々
 にとって有益になると判断された場合には喜んで迎え入れよう」
 「認められなかった場合は、追い出されるだけ?」
 「ここの噂を知らずにやってきたのかい? 我々は思っていたより有名じゃないんだな」
  がっかりしたように男は言った。でも本心かどうかはわからない。
 「殺されちゃうってことだよ、きっと」
  ルットが耳打ちしてきた。おバカ。そんなことわかってるよ。
  あたしはびくつく内心を悟られまいと平静を装った。
 「資質があるかどうかはわからないわ。あたしちに貢献出来そうな事、なにかある?」
 「それを考えるのは君たち自身だ」
  無碍もなく言い放たれた。
 「ちょっと待ちなよ」
  横合いから別の男が現れた。
  なんとまあ、見上げるような大男だ。おまけにものすごいデブチン。身長はニメートルを超
 えるだろうし、体重なんか半トンはありそうだ。よくもまあいままで存在を気付かれずに紛れ
 ていられたもんだ。こんなのがここで暮らすための資質だってんなら、到底願い下げにしたい。
 「わからねえってんなら教えてやらあ」
  デブチンは拳ダコの浮き出たキャッチャーミットみたいな拳をわざとらしく鳴らしながら歩
 み出た。長髪のソバージュにヒゲ面だけど、笑うとちょっと可愛いかもしれない。
  あたしは膨大な質量に気押されながらも、あら、と可愛らしく微笑んだ。教えてくれるとい
 うんなら是非にも知りたいところではある。なにしろ命が賭かってる。
 「能のない女に出来ることっつったらひとつしかねえだろ?」
  そんなことをデブチンは言った。
  腹の立つまえに呆れた。
  ほんっとに男ってのはどいつもこいつも。
  あたしは悲しくなってきた。
  あたしに恋人が出来ないのは男運が悪いせいじゃない。
  世の中の男が揃いも揃って大馬鹿野郎なのが原因だ。
  そうでなかったらこんなに理知的で愛らしいあたしに恋人がいないわけがない。
 「外の女を抱くのは始めてだ。せいぜい楽しませてくれよ?」
  冗談じゃない。こんなやつに抱かれたらぺしゃんこにされちゃう。
  止めてくれるかと周囲に眼をやると、どいつもこいつも無表情で身動きしない。とりあえず
 唯一話の通じそうな男も、なにも言わずに立ち尽くしている。乙女の危機を黙して見過ごすな
 んざ、やっぱりここの連中はろくなもんじゃない。
 「アズサ、重そうだよ? 大丈夫?」
  ルット。あんたなにピントのズレた心配してんのよ。こんなやつに抱かれるなんて、体重抜
 きにしたって御免だわよ。
  デブチンは顔中から汗を滴らせつつ、げへ、と下品に笑った。
 「おら、はやく脱いでぬれぬれおまんこを拝ませてくれよ。紫色か? 茶色か?」
  ぷちん、となにかが切れた。
 「ダメ!」
  流石に付き合いが長いだけあって、ルットはすぐに察して止めようとした。
  遅かった。
  あたしは足元に転がっていた大きなボルトを足の甲に載せ、思いっきり振り抜いた。
  三メートルを一瞬のうちにボルトは飛び、こればかりは予想以上の成果を挙げ得る個所にめ
 り込んだ。
 「けひっ!?」
  間の抜けた魚のような顔をしたまま、デブチンはゆっくりと股間に両手を伸ばした。
  肉の間に埋まっていたボルトが落下すると、デブチンもその場に蹲った。
 「おかあちゃん――」
  ひとことだけ言って気を失い、横倒しになった。
  すずん、と大地が揺れた。
  阿呆が。実の母親だってあんたの下の世話なんかしたくはないよ。
 「やっちゃった…」
  ルットが顔を覆った。
  もうあたしは見境がつかない。
 「次はどいつ!?」
  啖呵を切って周囲をねめつける。
  その視線が男に行きつき。
  あたしは血の気が失せるのを感じた。
  男は先ほどとかわりなく見える。
  それなのに、頭に昇っていた血が一瞬で凍りついた。
  理由はわからない。
 「お見事」
  男がにこやかに言った。
 「いいだろう。とりあえず行ってもいい」
  男の背後の人垣が割れた。
 「ただし、まだ合格じゃあない。気は抜かないようにと忠告しておくよ」
 「ルールが見えないわ…」
 「それが見えなければここでは暮らしていけない」
 「暮らすつもりはないわよ」
  微笑んで、男が一歩脇に退いた。
 「また逢おう」
  その声に促されるように、あたしたちは歩き出した。
  あたしはすっかり忘れてたけど、奇跡的にオヤジが気付いて花田女史を担ぎ上げていた。
  一塊になって人垣の隙間を抜ける。
  しばらく歩いて振り向くと、そこに人影はなかった。
  悶絶していたはずのデブチンの姿さえない。
  あいつら、幽霊なのかもしれない。
  本気でそう思った。
 「ああ…」
  気弱男の悲壮な溜息が聞こえた。
  あたしたち全員の心情をあらわしていた。
  心底思った。
  気絶したままの花田女史がうらやましいと。

 

                                      つづく

bottom of page