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「渇いた宵闇」

 

 

                 序 章

 

 

  何処とも何時ともつかない薄明の中にあって、しかしそれを慮る者は存在して

 いなかった。何故なら、それこそが彼らの求めたものであり、自分たちが用意出

 来る、最も相応しいと思われる状況であったからだ。

  かつてどのような用途に使われていたものなのか、不格好に切り出された石材

 が、こればかりは驚くべき整合性を保って互いを支えあい、その結果として穿た

 れた空間には、迫り来る質量の気配に臆しもしない二十数人の男女の姿があった。

  年齢も体格も、崇拝する力も異なる個々の人々は、いまは一個の群れとしての

 機能を果たしつつあった。部屋の要所、数カ所に置かれたランプの明かりも、決

 して四隅には届かない広大な空間の中にあって、その顔は闇に閉ざされてはいる

 が、見る者が見たならば、各人定められた位置に立ち、或いは座っている彼らの

 描く陣形により、そうと知れるであろう。

  見る者が見ればだって? 馬鹿馬鹿しい。彼はふと浮かんだ考えに鼻を鳴らし、

 あまりに馬鹿げた言い回しにくすくすと笑って身体を揺らした。一体誰がどうや

 ってこの場を見ることが出来るだろう。そもそも、もし、万が一にでもそんな者

 が──そいつは恐らく固く閉ざされた扉の向こうか、さもなければ石の隙間にで

 もはいつくばって、ネズミみたいに怯えていることだろう──いたとして、日々

 の糧を求めるだけしか能のない連中に、僕等の描く陣形の意味が理解できるはず

 もないじゃないか。

  自尊心を満足させた若者は、彼の崇拝する力を示す、濃紺のローブの奥底で華

 奢な身体を震わせた。彼はそのまま、胸中を走る快感に酔いしれていたかったの

 だが、ふと激しい視線に気づいて頭を垂れた。視線ともいえない視線を送ってい

 た、血の色のローブを着た人物は、別段満足した様子もなく陰鬱に頷いた。まっ

 たく、あの爺さんときたら──。

  彼は同じ目的を持って集まった連中を信用していなかった。己の力のためなら

 ば──自身がそうであるように──平気で同胞を売り渡すような連中だ。しかも、

 かつてはこの場に一大帝国を築いていたであろう、だがいまは鼻が痛くなるほど

 乾いた空気に滅ぼされた、乾燥した黴の匂いのような、殆どの連中が被害妄想も

 甚だしい老人である。まあ、中には若くして選ばれた者も混じってはいる。特に

 あの──驚いたことに──神に仕えていることを示す衣装を着た女は、なんと美

 しいことだろうか。

  エロティックな妄想に取りつかれていた若者は、陣形の中央に立つ老人──血

 の色のローブの老人が、懐から厳かに取り出した品物に気づいて息を飲んだ。こ

 れもまた煮詰めた血の色をした、革表紙の書物である。

  封印の書! 彼の頭の中で、衣装を脱ぎ去り、若鹿のような肢体を晒していた

 女は、熱狂の渦に巻き込まれて溺死した。彼は苦労してその気配を外に漏らすま

 いと努力しながら、しかし無駄だと悟っていた。そこかしこから同じような気配

 が流れてくる。老若男女問わず、この道に足を踏み入れた者であるならば、それ

 も仕方あるまい。伝説の魔術師、クロウ・リードの造りしクロウカード──。

  老人の手が印を結ぶと、封印の書は金色の燐光を放ちながら宙に漂った。印が

 再び結ばれると、燐光は一瞬のきらめきとなり、なにかの力と拮抗して、次第に

 明度を低下させて落ちついた。

  表紙と裏表紙を結んでいたベルトが解かれ、するりと漂った。瞬間、若者は嫌

 な想像に囚われて身を固くしたが、すぐに思い出して、心からの安堵の吐息を漏

 らした。クロウカードを守護する、黄金の瞳を持つ封印の獣。彼は誰が何処から

 封印の書を持ち出したのかさえ知らなかったが、既にその封印の獣が封印の書よ

 り駆逐されていることを有り難く思った。なんであれ、自分がその場にいなくて

 よかったと。いずれは封印の獣か、或いは彼の見い出した捕獲者、キャプターが、

 管理の手を離れたクロウカードの──過去何度かあったらしい事実と照らし合わ

 せてみても──探索に現れるかもしれないが、なに、彼らはもう間に合いはしな

 い。

  なにか拍子抜けするくらいに、軽々と封印の書は開かれてしまった。金色の光

 に精気のようなものが混じったのを、何人かの者は感じた。それこそカードに秘

 められし魔力に他ならないのだが、並の魔術師が束になっても敵わない彼らをし

 て、その正体を易々とは見破れなかった。

  糸に操られるように、或いは数十条の気流に乗るように、封印の書から漂い出

 たカードは、人々の描き出した陣形、魔法陣の中を音もなく滑り、舞った。同時

 に周囲の空気をパチパチと爆ぜさせながら、幾種類もの魔力が、競うように満ち

 始めた。

  やがてカードは、それぞれが己を操るに相応しいと認める者の元に向かい、自

 ら手中に納まった。その者の放出する魔力の属性、そして力に導かれたのだ。若

 者は踊る心で一枚のカードを眺めていた。そこには水の属性を秘めていることを

 示す文字が、見慣れた字体で記されている。もうひとつ、聞いたところによれば

 東洋の大陸に発生したといわれる複雑な文字が記してあったが、それは読み取る

 ことが出来なかった。クロウ・リードに流れたという血と、魔力の半量を司る源

 だろう。

  彼はこれから行おうとしていることに対して、さしたる罪悪感も抱いていなか

 った。結果、出来上がったものがどのような目的のために使われるのか知らない

 わけではなかったが、散々自分に背を向けてきた世界がどうなろうと、知ったこ

 とではないのである。財を成したければ成せばいい。復讐をしたいのならすれば

 いい。ひとを殺したいなら、国を滅ぼしたいなら、そうすればいい。誰の思惑だ

 ろうとも。

  彼にとって重要なことは、この恐るべき、そして誇るべき偉業に己が参加して

 いるという事実であり、それに選ばれたという事実であった。決して陽光の下で

 は語られないだろうが、知る者の記憶の中には、永遠に語り継がれるであろう栄

 誉だった。

  だから、誰からともなく詠唱が流れ始め、やがてそれが低く垂れ込めた秘密の

 霧の如く漂い、魔法陣によって整然とした流れを造り始めたときも、恐れは感じ

 ていなかった。

  身体の中心を魔力が流れる。他人の魔力を己のものとし、それを増幅させて他

 人に渡すのは骨が折れる仕事だったが、彼はなんとかこなし続けた。そのうちに

 九層地獄界の釜の蓋が開いたのではないかと思われるほどの冷気と熱気が交互に

 打ち寄せ、人々の呼吸を乱し始めた。誰もが経験したことのない力を感じ、機が

 熟し始めたのを察知した。えも言われぬ快感と苦痛に呻きが漏れ、数人は性的絶

 頂の最中にさえあった。

  最初の一団がクロウカードを掲げたのはそのときだった。封印を解かれた魔力

 は自由を求めて迸り、しかし渦巻く力の壁に追い詰められ、魔法陣の中央に囚わ

 れた。それぞれの魔力が本体ともいうべき姿──それは雷獣であったり伝説の死

 神のような姿であったりした──に立ち戻り、凶暴な敵意を持って術者に牙を剥

 いた。

  人々は打ちのめされそうになりながら、力を併せ、必死の思いで強大な魔力に

 立ち向かった。クロウカードを扱うこと自体は、そうした目的のために造られた

 だけあって、さして難しいことではなかった。封印の鍵を操り、封印の杖と成し

 得るだけの魔力があれば、彼らに言わせればそれは赤子でも可能だった。だがカ

 ードの魔力を束縛し、服従させ、利用し、新たな魔力──それは口にするのも恐

 ろしいほどの魔力──を秘めたカードを造りだそうとなれば、それこそ命を賭し

 て当たらねばならない難事であった。

  集まった人々の大半は、奮戦している若者と同じく、澹く燃えるような情熱に

 取り憑かれていた。己の存在価値である力。その力でクロウ・リードの造りしカ

 ードを超越するカードを造る。確かに零からではないが、この際それは些細なこ

 とであった。

  黒いローブを着た老人が、胸を掻きむしって倒れた。魔力の流れが滞り、周囲

 の人間は穴を埋めようと精神を集中させた。稲妻に打たれ、またひとり黒焦げに

 なって倒れた。またある者は、血を吐きながら悶絶してもがいた。そこかしこに

 断末魔の苦鳴が響く。まだ息があり、他人にすがりつく邪魔者は、寸刻前まで同

 胞であった──或いは一度たりともそうではなかった──者にその息の根を止め

 られた。修羅場の中、しかし生き残っている者は、魔力だけを全身に感じて陶酔

 していた。かつてこれほど苦痛に満ちた、しかし幸福に包まれたことはなかった。

  ついにクロウカードの魔力は彼らに屈した。その身から奪われた力は激しく泡

 立って融合を果たし、正しく導かれた結果、ぞっとするような虚空──漆黒のカ

 ードとなって実体を結んだ。利用された魔力は瀕死の状態でクロウカードに収め

 られ、力の回復するそのときまでの眠りについた。

  また新たな一団がクロウカードを掲げ、そして何人かが息絶え、混沌とした魔

 力が産み落とされた。その繰り返しの中、若者も自らの契機を悟り、カードの力

 を放っていた。造り出される魔力は、クロウカードの力によって生み出されるが、

 それぞれのカードに秘められた魔力同士の相性に因って、その成否は大きく左右

 される。だからカードを扱う術師は、周囲に渦巻く魔力の気配を感じ取り、最適

 と思われる瞬間に魔力を開放するのだった。ちらと見たところでは、白衣の女神

 官の手からも、剣を示す魔力が迸り出ていた。若者はそれを嬉しく思った。いま

 産み落とされる魔力は、自分たちの子孫なのだ──。

  自らの子供たちが行っている所業に、神はいかなる眼を向けているのだろうか。

 何処でもなく何時でもない空間に、刻は流れていないのかもしれない。どれだけ

 の魂がそこに漂い閉じ込められたのか、数枚の漆黒のカードが生まれ、殆どのク

 ロウカードが沈黙したその後に、息のある者は数人しか残っていなかった。

  倒れ伏し、もはや頭すら動かせなくなった若者は知っていた。最後の大仕事が

 残っているはずだ。息のある者はそれに当たらねばならない。──僕の息はある

 のだろうか?

  暗闇の中から、ひとりの男が運ばれてきた。金髪。長身。細いが筋肉質な身体。

 生とはかくあるべきという均整の取れた青年だが、その胸には、複雑な紋章の刻

 印が施された短剣が、深々と突き刺されている。血の気の失せた顔には死相が浮

 かび、何かに掴みかかろうとしているかのような腕は硬直していた。選ばれし人

 間。なぜそれがひとでなければならなかったのか、誰も口を開こうとはしないだ

 ろう。心の奥底で、それこそが魔力に対するささやかな抵抗であることを知りな

 がらだ。ひとの力を凌駕する魔力に、主が誰であるのかを知らしめる為に。

  血の色と、夜の色と、霧の色と──。何人かの人々が「死者」を取り囲み、印

 を結んで詠唱を始めた。若者はその光景を見ることは出来なかったが、耳に届く

 言葉だけは聞き取ることが出来た。その中でもいやにはっきりと流れる声は──

 驚いたな、あの爺さん、まだ生きてたのか。

  やがて抑揚無く流れた言葉が途絶えると、魂を切り裂くような──いや、切り

 裂かれたような悲痛な叫びが上がった。それは長く尾を引いて震え、最後にはか

 すれて消えたが、いつまでも空気中の粒子に染みついているのではと思わせる種

 類の叫びだった。ひとがそのような声を出せるのは一生に一度しかないだろうが、

 まともな神経の持ち主ならば、出来るならば出したくもないし、耳にしたくもな

 いと神に願うだろう。

  若者は耳の奥に残る言葉の意味に、ぼんやりとそんなことを考えていた。殺さ

 れ、刻の魔力に囚われ、語ることも許されず、これから先、永遠に重荷を背負い

 て彷徨い続けなければならないとしたら──。僕もあんな声で叫ぶのだろうか。

  床の冷たさすら感じなくなった若者は、切り刻まれて散らばっている、あの美

 しい女神官の姿を網膜に焼き付けながら、空気が動くのを感じていた。生き残っ

 た者が何人いるのかは知らないが、彼らは過去と自らの創造物を携えて去って行

 くのだろう。その時、彼は始めて悔しいと思った。なぜ自分がその中に含まれな

 かったのだろうか。その事だけを考えた。

  ひとの気配の失せた空間に、真の闇が降りてきた。この場に二度と再び光が持

 ち込まれることはないだろう。若者の眼にも暗闇は侵入していたが、彼はそれに

 は気づかなかった。ただ、考えていたのだ。

  なぜ、なぜ、なぜ──。

 

 

 

 

                 第一章

 

  1.

 

  他に語る術を持たない物を目にした人間が常にそうしてきたように、その場に

 降り立った桜の声は、やはり極限まで密められていた。

 「ケ、ケロちゃん、なに、あれ……?」

 「わからん──けどめっちゃヤバそうな雰囲気や……」

  それは、言われるまでもなく桜にも感じ取れた。いや、正確に言えば桜だから

 こそ感じ取れたのだ。強い力は周囲に拡散する。だから、ひとはそれを感知出来

 る。畏怖もする。しかしそれは、裏を返せば無駄な力の拡散に他ならない。ひと

 の感知出来ない力。内に秘め、完全に己の制御下に置かれた力こそが恐ろしいの

 だ。いま対峙した<それ>には、確かに鬱々とした圧迫感があった。経験がひと

 を変えるのであれば、それこそが彼女にそう認識させている。

  ごお、と風が唸った。地上七十メートルの高みを目指し、人工の谷間を駆け上

 るビル風が、陽炎のように揺らめいた。ぼんやりと明滅を繰り返す標識灯の赤が、

 月のない今宵を飾るにはこれこそが相応しいとばかりに、凶々しくコンクリート

 に血溜りを描く。

  <それ>は泰然と風に揺らめいていた。濃紺とも真紅とも言えない澱のような

 陰が、まったく別の物にも、ひとの姿にも、そして平坦にも無限の奥行きがある

 ようにも見える形状を造り、霊気の如く纏った碧の粒子が、こればかりは美しく

 流れている。風下から風上へと、だ。

  湿気を多量に含んだ、べとつく風。しかし桜の背中は冷たく粟立っていた。

  <それ>はまるでこちらを歯牙にもかけていないようだった。何かを考えてい

 るのか、それとも矮小な人間の推測などでは計れないのか、ただ、そこに存在し

 ているだけだ。

 「ケロちゃん……」

  呟いた。まるで打つ手が見つからない。それどころか、彼女は真剣に思ってい

 た。あれの邪魔をしてもいいのだろうか? 果たしてそれで正しいのだろうか?

  地獄の番犬の名を持つ、かつてひとに造られし封印の獣、守護獣は、しかしい

 まとなっては名残りすら感じられない姿──出来損ないの、翼の生えた、小さな

 熊とも犬ともつかない陳腐な縫いぐるみのような姿で肯いた。彼女の不安は尤も

 なのだ。

 「あないな奴は見たこともない……。迂闊には手ぇださんほうがええ……」

 「見たことないって……。じゃあ、あれ、クロウカードじゃないの?」

  そっと身を寄せて桜が囁いた。

 「わからんのや。雰囲気は確かにクロウカードによう似とるんやけど、はっきり

 とは断言できん。なんせ圧力が桁違いや。今回は──いや、今回だけはやめたほ

 うがいいかもしれん……」

  言いながら、ケルベロスが喉の奥で唸った。石臼をひくような、ざらついた音。

 桜はついぞ耳にしたことのないそれに、こくりと喉を鳴らした。いつもとは違う、

 たぶんそれが本来の声。守護獣は本気で警戒しているのだ。

  伝染性の恐怖に襲われた桜は、しかし決然と言った。

 「でも、このまま放っておけないよ! だって……」

  放っておけば、どんな事態が発生するか予想も出来ない。しかし、続くべき言

 葉はついに彼女の口を離れなかった。言ってしまったら、想像しているような惨

 禍が現れてしまうかもしれない。そう思わせるだけの威圧感が<それ>にはある。

  振り払うかのように彼女は叫んだ。絶叫だ。恐らくは小さな身体の持てる気力

 を総動員したに違いない。契約の文句に載って封印の杖が疾り、澄んだ音が響く。

 「あかんっ!?」

  重なるように迸った声と、放たれたカードが光を放つのは同時だった。その中

 から滲むように発動した風の属性を持つ魔力が、停滞を見せずに数本の枷となっ

 て疾る。

  しかし──。

 「あっ!?」

  我が目を疑った。<それ>の周囲で、風は身じろぎをして拡散したのだ。脅え

 たようにも見えるが、しかし契約者に絶対の忠誠を誓い、その限りに於いて自ら

 の意思を持たないカードの魔力が?

  一度霧散したかに見えた風の魔力は、次にはゆっくりと集結して実像を結んだ。

 汚らわしい肉体を持たないが故の、清冽な姿の女性へと変貌した風は、そこでま

 たしても桜に息を呑ませた。風は、<それ>に向かい恭しく頭を垂れたのだ。

  <それ>は、何ひとつとして行動を起こしていない。見た限りでは横槍を疎ま

 しく思ったような素振りもなかった。風が、自らの意思で敬意を示したのだ。さ

 くらは手中に帰ったカードを見つめ、そう理解した。恐らくこの場で、二度と再

 び風の魔力を発動させることは出来ないだろう。

 「さくら、あかん、あかんで! すぐにここから逃げるんや!」

  ケルベロスがじりじりと退きながら言った。

 「でも──」

 「己惚れるなや! いくらおまえでもどないにもならんこともあるっ!」

  金属音が会話を遮った。

  振り向いた背後で、屋上へと通じる通用口の鉄扉が開いていた。制服姿の男が

 ひとり。恐らくは三十半ばを迎えた専属の警備員だろう。

  彼も、何気なく開けた巡回経路の扉の向こうに、どう見ても十歳前後の少女が

 立ち尽くしているのにはすぐに気づいたらしい。

  戸惑った彼は、怪訝な顔で目のまえの少女を注視した。

  すぐには声が出なかった。何故あんな少女がこんな場所にという疑問はともか

 くとして、彼とて、世の中に様々な奇癖を持った人間がいることは承知していた。

 しかし場違いも甚だしい闖入者である少女の顔には、人知れず他人の建物に忍び

 込む悦びに魅入られた輩にひとしく浮かぶ、してやったり、のそれではなく、歴

 然とした不安の陰が棲みついているのだ。

 「きみ──」

  漸く開いた口から、突如として黒血が溢れた。驚いたように見開かれたふたつ

 の眼は、まるで何かに引き寄せられるように眼窩から弾け落ち、次には全身が奇

 妙な格好で崩れ落ちた。その間、ついに彼の口からはひと言の声も流れなかった。

  湯気でも立ちそうな臓物が捩じ曲がった体躯から滲むのを見て、桜はぺたりと

 その場に尻を落した。

  それを運命だと言うのならば、彼の運命は間違いなく尽きている。そして運命

 を語るならば、恐らくそれは彼女にしても同じに違いない。一仕事終えた帰路、

 偶然異変を見つけた摩天楼の頂きに。

  舌が上顎に張り付き、喘ぐこともままならない桜は、何かに促されたとも、当

 然ともいえる動きで振り向いた。

  <それ>はまだそこに在った。ただ唯一異なるのは、そういえるのならば顔と

 思しき部分が、彼女を──否、その背後にわだかまる肉塊に向けられていること

 だ。

  何故。戯れか。それとも、本当に凄惨な死をもたらしたのが<それ>なのか。

  桜にそれを想う思考能力は残されていなかった。

 「ひ──」

  その彼女がたじろいだのは、強烈な生に対する執着心からだった。いかな種類

 の恐怖も、つまる所は死に対するそれに帰結する。そいつが彼女の惚けた精神を

 ひっぱたいたのだ。ゆらり、と乱れた「顔」が、己に吸い付いたとあっては、生

 存本能としても黙っているわけにはいくまい。

  だが、彼女は行動を起こせなかった。

  内臓が引き寄せられた。下へ。脳も、眼球も、肺の中の空気でさえ。

  そして、ふいにそれは途切れた。

 「げ──げええっ──」

  間隙を埋め合わせたのは猛烈な吐き気である。日常の名残りに違いない夕食だ

 ったものが、奔流となって喉を通過していく。

  堪える気力は彼女にはなかった。酸味の効いた吐瀉物が、汚らしい音を立てて

 コンクリートに弾けた。

  視界が赤く翳み、胃の腑がもんどりうつ。こめかみと鼻の奥の血管が、破れそ

 うなほどに拡張する。

  無残な遺体という形で確かな死を眼前に見ていた彼女は、しかしその程度で済

 んだことに感謝すら出来なかった。

 「さ、さくら……」

  不安気な守護獣の声に、桜は次の発作を迎えた。

 「────」

  今度は声も出なかった。両手をコンクリートにつき、背中を丸めて悶える彼女

 に、もう吐き出せるものは残っていない。

  しかし、出た。

  それだけで心拍停止に追い込まれそうな恐怖。

  彼女はコンクリートに弾けた己の血液を凝視しながら、下腹部に溢れ出すもの

 を感じていた。さらさらとした生暖かい液体が、染みになって広がる。排泄物の

 匂いがふわりと昇った。

 「こ、恐いよ……いやだよう……」

  ようようと漏れた鳴咽を風が浚う中、桜の意識の片隅に、ことここに至って、

 ようやく疑念の二文字が明滅を始めた。何故自分は生きているのだろうか?

  風の中に、彼女は微かな声を聞いたような気がした。

  顔を上げた。

  <それ>はもう、手中にもがく獲物から、興味を失っているようだった。いや、

 失ったのではなく、失わされているのだ。直観的にそう悟った。

  桜は顔を巡らせ、<それ>の視線が捉えている方向に瞳を向けた。

  <それ>の背後。墓標のように沈黙する影の群れのひとつ。隣接するビルの屋

 上。

  長身痩躯。距離と暗夜の帳に紛れた人影は、そう見えた。

  すう、と左腕が上がった。

  音が聞こえた。小さな、しかし鮮烈で乾いた音が風に載った。傍観者となった

 桜に、果たしてそれがフィンガースナップだと理解出来たか。

  人影の左手に、カードが現れていた。

  瞬間、<それ>からとてつもない気配が溢れた。

  がん、と一撃されたかのような衝撃を受けた桜は、それが紛れもなく恐怖の気

 配だと察して、慄然とした。いかなる思考をも感じさせなかったそれが、確かに

 脅えている。

  夜の闇が人影に、その手に在るカードに向かって引き寄せられたのは、寸刻の

 後だった。

  決して肉眼では捉えられない、しかし、輝くような濃密な闇と化したカードに、

 <それ>は叫び声を上げた。音ではない。振動を伝える物質などは必要なかった。

 周囲五キロに渡って十数人の発狂者が出たのは、この晩のことだ。

  <それ>は、瞬く間に千々に乱された。ひしゃげ、潰れ、歪み、即座に人影の

 カードへと集められた。風などは吹かない。閃光も疾らない。音すら皆無のまま

 に。

  そして、すべてを遠き彼の地へ運び去ろうとでもいうのか、もう一度風が蠢く

 ように唸って消えた。今宵、ここであったことを、誰であろうと知られてはなら

 ないとしたのかもしれない。

  桜も、守護獣も、悠に三十分は声もなくその場に崩れていた。

  漸く思考能力が回復したときには、人影も、<それ>も、奇麗さっぱり消滅し

 ていた。わだかまった、元は警備員であった肉塊だけが、この場の記憶を留めて

 いるに違いない。

  或いは永遠の呪いを込めて。

 

 

 

  奇怪な殺人事件に係わった人々は、すべからく頭を抱えてそこを掻きむしる行

 為に没頭していた。

  死後二十四時間と経っていない被害者の遺体は、しかし真夏の太陽に酷くいた

 ぶられた状態で発見された。駆けつけた連中は、腐敗臭と、既に卒倒して病院に

 運ばれた第一発見者──彼は被害者の同僚だった──の反吐の臭気が漂う中、烏

 についばまれた肉塊を検分しながら、新しい反吐の匂いを辺りにまき散らす羽目

 になったのである。

  どんなに無残な遺体でも、それがかつてはひとであったのだと窺うことが出来

 るものだ。彼らがそれまでに眼にしてきた中でも最も酷かった、列車による轢断

 死体に於いてもそれはかわらなかった。

  だがこれは──あまりにも酷すぎる。全身の骨という骨は粉砕され、内蔵はこ

 とごとくすり潰されたが如き様相を呈し、それでも皮だけは縮れながらも原形を

 留め、それが故にこれは人間の遺体ではなく、そうあってしかるべき、何かの食

 材に見えないこともないのであった。決定的に一般人とは異なる彼らをして、そ

 の口からは懇願にも似た呻きだけが漏れたのが、すべてを物語っているといえよ

 う。

  事故や自殺でないことは、遺体や、いかなる痕跡をも残していない周囲の状況

 からすぐに知れた。しかし他殺だとして、一体どのようなことをしたならば──

 或いはどのようなものが──人間をあのような状態に出来るのだろうか。職業的

 という言葉を大きく超えた好奇心を満たす解答はいまのところ何処からも聞こえ

 てこないし、恐らく先々にして望むべくもないだろう。

  彼らに解っているのは、そんな観測と、この事件が──いまはまだ生々しすぎ

 るが故にないとしても──将来に於いて語り種になるだろうこと、そしてそんな

 話を新人こそ面白がるかもしれないが、ある程度の古株となった者の顔には、苦

 々しい色が浮かぶに違いないだろうことだけだった。こんな事件はとっとと書類

 に閉じ込めて、文字通り迷宮の中に放り込んでおくのが一番だと、彼らは信じて

 疑っていないのだ。

  そうして今日もまた、報われない悲壮な決意を抱いた人々が炎天下に曝されて

 いるころ、大道寺知世はたっぷりと機械の匂いを滲ませた、人工冷気の直中にあ

 った。

  六階に停止したエレベーターから抜けても、鉄臭い匂いは消えなかった。死臭

 にも似た消毒液の匂いも、それを緩和してはくれないようだ。

  ふんだんに振る舞われているはずの陽光が、しかし入り込む隙もない、蛍光灯

 が放つ揮発性の光が陰気に漂う廊下を行き、知世は「木之本様」と記されたプレ

 ートの嵌まるドアのまえに立った。

  間を置いた二度目のノックに返答があった。気の抜けた声に顔を曇らせ、それ

 でも彼女は笑顔をつくってドアを開けた。

 「お加減はいかがですか?」

  問い掛けに、桜は応えなかった。狭いひとり部屋を占拠しているベッドに半身

 を起こし、閉じられたカーテンの隙間に、ぼんやりとした視線を漂わせているだ

 けだ。

  知世は、これが本当に自分の知る同級の友なのだろうかと、小さなため息をつ

 いて、悲しげに瞳を揺らめかせた。

  それでも気を取り直し、彼女は抱えてきた薔薇の花束を生け始めた。部屋に備

 えつけの洗面台で、手にした花瓶に水を注ぐ。前回持参した花は別の花瓶で未だ

 生気を失っていなかったが、どうやらそれが部屋の雰囲気を明るくするという使

 命を果たしているようには思えなかった。それならせめて、数が多いほうがいい

 だろう。

 「知世ちゃん……」

  背中に、呟くような声が掛かった。

  びくりとして振り向いた知世に、桜は続ける。

 「毎日来てくれてありがとう……」

 「──気にしないでください。さくらちゃんのお見舞いに来るのは当然ですわ。

 それに、夏休みで何もすることはありませんし」

  言葉に詰まってしまったことで、つくり笑いがばれやしなかったかと、知世は

 内心穏やかではなかった。それに、ふたこと目の言葉は余計だったのではないか。

  が、どうやら病床の少女はそれには気づかなかったらしい。だが知世は、素直

 には安心出来なかった。どうせなら気づいてくれたほうが、どれだけ良かったこ

 とか。桜の視線は、相変わらず僅かばかりの窓外に向けられているのだ。それも、

 何を映しているのかさえ判別出来ない視線を。

  ぽん、と柔らかい音が響いた。知世が掌を打ったのだ。それは気まずい雰囲気

 を追い払うには役不足だったが、彼女に話し出すきっかけを与えるには十分だっ

 た。

 「そうそう、来るときに下で、さくらちゃんのお父様にお会いしましたわ」

 「……うん。さっきまでここにいたから」

  桜の視線が、始めてちらと動いた。その先には安物の、だが機能的な棚の上に

 置かれた飴玉の袋がある。極めて医学的な診断の結果、桜の胃に神経性と思われ

 る微細な損傷が認められたことは彼女の父親とて承知していたが、妻の忘れ形見

 である愛娘に、唯一自分がとれる形として残していった品物だ。

 「食べる?」

  友人が自分の視線を追っていると気づいた桜が、くすりと微笑んでそう言った。

 ここ何日か──正確にはさくらが入院してから六日ほどだが、始めて浮かべた彼

 女らしい表情に、知世がどれほどの感謝を捧げたか。

 「いただきます」

  頷き、ベッドの傍らにあった丸椅子に腰掛けると、小さな贈り物を受け取った。

  ややあってから、

 「そういえば、ケロちゃんはどちらに?」

  そう問い掛けた。人目のある場所では、現状を最大限に利用した──つまり縫

 いぐるみとして己を隠匿している守護獣の姿が、部屋の何処を見渡しても発見出

 来ない。

 「うん……」

  桜は、ただそう頷いた。

  応えにはなっていなかったが、知世は桜に浮かびかけていた表情が別のものに

 変わるのを見た。──あれは、戸惑いだろうか。それとも恐怖?

 「さくらちゃん」

  意を決したその声には、不安と、それを凌駕する断固たる響きが含まれていた。

 最後に掛け値のない桜の笑顔を見たのは、彼女が過去何度もそうしてきたように、

 制御の枷から解き放たれたカードの一枚を封印してみせた、あの晩のことだった。

 そして翌日、駆けつけた病室に、それはもう存在していなかった。

 「いったい、何がありましたの?」

  返答はない。

 「私と別れた後に、何かあったんですか? ひょっとしてクロウカードと何か関

 係があるんじゃ──」

  息を呑んだのは、果してどちらだったのだろうか。

  声もなく口許を抑える桜の顔は、朱に染まっていた。それが吐き気を堪える為

 の鬱血だと悟った知世からは、逆に血の気がまったく消えて失せた。元が半透明

 にも見えるほどに白い彼女の顔にも、やはり命ある者の証は示されていたのだ。

 「さくらちゃん!?」

  浮きかけた腰を、桜の右手が制した。

 「……ごめんね、知世ちゃん。もうすぐ退院できるから、そうしたらどこかに遊

 びに行こうね……」

  そんな言葉で示された拒絶は、既に知世には馴染みのものとなっていた。

  前日までなんの異変も見られなかった少女が、次に会ったときにはこうなって

 いた。尤も、病とはそういうものなのかも知れないが、彼女を病院へと送り込ん

 だ家族の語るところから推察するに、それは他人には明かせない、そして明かし

 たところで常識と平穏の名の下に一笑にふされるだろう事柄が行われてから、も

 のの三時間と経っていない頃合い端を発しているらしいのだ。物音を聞いて駆け

 つけた歳の離れた彼女の兄は、ベッドを血に染めて苦しむ妹を見てどう思っただ

 ろうか。

  そして、彼らとは違う意味をもって常識外という言葉を捉え始めていた知世が、

 そこから、やはり彼らとは違う結果を導き出すことに、さしたる想像力も必要と

 しなかったのは当然の結果だった。が、ことの真意を確かめようとする度に、嘘

 をつくのが苦手な少女は、ただ口を閉ざしてしまうのだ。それが何を意味するの

 か、理解しているのは間違いないはずなのに。

  だからこそ知世は、今度もまた引き下がった。ふたつの黒躍の如き瞳を滲ませ

 ながら。

  空疎といわざるをえない時間の中で、ふたりは差し障りのない会話をいくつか

 交わしたが、長続きはしなかった。それは、決して一方だけの責任ではあるまい。

  やがて看護婦の手により桜に点滴が施されるころ、知世は挨拶を残して病室を

 後にした。立ち去り難い想いがその脚に絡みついているのは、誰の目にも明らか

 だっただろう。

  桜はそんな彼女の姿に罪悪感を覚えていたが、しかしすべての心を委ねてはい

 なかった。濁った汚水にいくら清水を注ぎ足したところで、それが決して元には

 戻らないように、彼女の心には、他人を思いやる感情などが透明に輝ける余地な

 ど、僅かばかりも残されてはいないのだった。

  児戯にもひとしかった──とは、いまや思考の根底に、確固たる土台を築いて

 いた。その他の思考のすべてがその上に積み重なり、風のひと吹きを待っている

 のだ。ただそれだけで、彼女は解放されるのかもしれない。

  ひとが死んだ。目のまえで命を失った有機物の塊と化した。何がそれをもたら

 したのかは、いまもって薄明の中にすら影を現さず、漠とした恐怖だけが彩りを

 添えているのみ。それは、狩人としてのそれまでの自信も、そして自負をも褪せ

 果てさせ、始めて意識する死の意味を眼前に突きつけてきたのだ。そして死の淵

 にあって、尚それよりも冥とした人影がすべてを呑み込み、消し去った事実──。

  考えたくもないし、思い出したくもないあの晩の光景は、しかしそう意識して

 いる限り消滅することもない。桜はそう理解していながら、どうすることも出来

 なかった。自分が何者であるのかを、いやというほどに思い知らされたのだ。

 

 

 

  2.

 

  病院を後にした知世は、車外の景色に滲む憂鬱そうな顔にため息をついた。深

 々とシートに身を沈め直し、ぼんやりと漂う香りに想いを馳せる。運転席と助手

 席、それから彼女を挟むように陣取ったボディガードからは、清潔に整えられた

 スーツの布地の匂いと、僅かに感じられる程度の化粧品の香りが滲んでいる。そ

 れだけが任務に忠実な人々の正体が女であると告げていた。

  大道寺家という音に聞こえる資産家のネームバリューを背負った自分を護るた

 めに、同じ屋根の下に暮らす彼女らの私生活を、知世は知らなかった。サングラ

 スと揃いのブラックスーツに身を包んだ彼女らは、寸分違わぬ工業製品のように

 も見えた。余分な生地の見受けられない仕立てのいい上着に、着る者を選ぶタイ

 トスカートを見事に着こなす気高さが、一層その感を強くさせる。

  名前すら知らぬボディガードが、しかし一定のローテーションで入れ替わる度

 に、知世は違いを見つけ出そうと努力したものだったが、いまではそれも諦めて

 いた。確かに別人のはずなのに、雰囲気も、そしてその香りでさえ、どんなに些

 細なヒントも与えてはくれないのだ。部外者の入り込む隙は、喩え保護されるべ

 き人間であっても存在していない。

  大通りから人通りも少ないうらぶれた横道に逸れたセダンは、薄汚れた高架線

 下に差しかかったところで急激に黒い車体を捩じって停止した。対向してきた軽

 トラックがふいに鼻面を振り、横腹に食いついてきたのが原因だ。

  危うくシートから脱落しそうになった知世を左隣のボディーガードが支え、右

 隣のボディガードはドアに手を掛けていた。そこは酷く歪んでぴくりともしなか

 った。その間に助手席のボディガードは素早く降車していた。

  運転席に納まったボディガードは全ての状況を確認すると同時に、ギアをバッ

 クに入れて車を急発進させた。鉄の軋む嫌な響きを残し、十メートルほど後退し

 て停止する。

 「どうしたんですか──?」

 「伏せていて下さい」

  悲鳴を漏らす暇もなかった知世が問い掛けたが、にべもなく頭を抑えつけられ

 た。彼女の身を庇っているのは、いまは右隣のボディガードだ。要保護者を受け

 渡したボディガードは、そこで降車すると、先に降りていた同僚に向かって走り

 出していた。

  輝く車体に醜い傷痕を刻まれたセダンは器用に方向転換をやってのけると、元

 来た方角に向けて走り去った。

  そちらには目もやらずに小破した軽トラックに到達したボディガードは、実は

 大分以前から何かがおかしいと感じていた。運転手にどんな意図があったのかを

 確認しようとしていたのだが、いくら目を凝らしても、運転席に納まっているは

 ずの人影が確認出来ないのだ。

 「これは──」

  立ち尽くしていた同僚に向かい呻いたのは、不可視の正体を知ったからだ。

  恐らくは駆けつけた援護者より先に事態を把握していたであろう先駆者は、そ

 っと車体に手を掛けて、慎重にドアを開けた。ロックは掛かっていなかった。

  水音が足元に弾けた。濃密な香りが車内の冷気と混じって路上に満ちる。

  半ば予想していたこととはいえ、ふたりのボディガードは卒倒するのを防ぐた

 めに、相当の気力を奮い起こさねばならなかった。

  車内に人影はなかった。だがそれが彼──或いは彼女──の姿を、四つの目玉

 から隠していたわけではない。ぶちまけられた血液と肉片が、車内を悉く塗りつ

 ぶしているのだ。フロントもサイドも、それからリアでさえ、透明であるべきガ

 ラスは赤黒く彩られている。まるで、アメリカ産の毒々しい色をしたチェリーを、

 力一杯そこに投げつけたようだ。尤も量は莫大なものになるだろうが。

  正直なところ、ふたりのボディガードのどちらも、状態の如何に係わりなく人

 間の遺体を見たのはこれが始めてだった。まさか人間にこれほどの血液が詰まっ

 ているとは、俄には信じられない思いだった。しかし、付け根からもぎ取られて

 シートの下に転がる二本の脚が、この場に在った物体が、間違いなく人間であっ

 たと語っている。

  彼女らは吐き気を堪えて、車内の様子からなにがあったのかを知ろうと努力し

 た。

  結果は惨憺たるありさまだった。皆目見当が付かない。車内に損壊はなし。血

 の匂い以外はいかなる異臭も感知出来ない。火薬を始めとしたあらゆる危険物質

 の匂いに精通している鼻を、彼女らは誇りに思っていた。

  非常時に澱みなく動けるよう、彼女らはあらゆる事態を想定した訓練を受けて

 きた。だが完全に叩き込まれたはずの知識のどこをひっくり返しても、こんな場

 面に遭遇したときの対処方は出てこなかった。だとすれば、何か応用の利きそう

 な想定を当てはめて動くしかない。自分たちはプロなのだ──。

  瞬時の内に立ち直ったボディガードは、しかし同僚から相棒へとなりつつあっ

 た者に顔を向け、その場に立ちすくんで彫像と化した。完成されたポーズを保つ

 均整の取れた身体は、もしかするとそうなるべく創造されていたのかもしれない。

  目のまえの彼女は大きく口を開き、そこから舌を吐き出していた。唾液がとめ

 どもなく溢れては、細い顎を光らせている。両手は喉元を掴み、爪が皮膚を破っ

 て血を滲ませていた。

  ひゅう、という甲高い呼吸音に、彫像に亀裂が入った。血の気を失った同僚に

 再び我に返ったボディガードは、彼女を苦しめているものの正体を探ろうと躍起

 になって視線を巡らせた。同時に、呼吸は出来るだけ細く、浅く、鼻孔だけを使

 って行う方法にシフトさせていた。致死性のガスを吸った者がしばしば見せる症

 状と、目のまえの人間のそれは酷似している。或いは──窒息だ。

  一度血の気を失ったボディガードの顔は、いまは酷く鬱血していた。舌は大き

 く膨れ上がり、首といわず額といわず腕といわず、肌の露出している部分には太

 い血管が膨れ上がっているのが見える。

  次にはその血管が破れ始めた。びゅるりと静脈血が吹き出し、路面を叩く。膝

 から崩れ落ちた彼女は、空気を求めたのだろうか、喉元の皮膚と一緒に、自らの

 スーツを腹部まで引き裂いた。小振りな乳房が弾けて揺れたが、そこにすら醜く

 血管が浮き出ている。いや、いまや毛穴からさえ血の珠が滲みつつあった。苺状

 の浮腫と化した乳首からは、四方八方へと細く赤い線が飛び散っている。

  落ちたサングラスに、ついに傍観者は喉を鳴らした。そこに隠されていた眼球

 は、限界を大きく超えて飛び出しかかっているのだ。血の涙を流している。二度

 と忘れられまいと、彼女は確信した。

  そして彼女は知った。車内に自らを塗り込めた者になにが起こったのかを。

  滑稽な音をこの世の名残として弾け飛んだ人間の残骸を、彼女は全身に浴びて

 いた。黒ずんだコンクリートの壁にも、ざらついた路面にも、路肩に揺れる草に

 まで、瞬く間にそれは及んでいた。この場にいる誰が知っているわけでもないが、

 数日前にビルの屋上で死んだ男とは、まったく逆の現象だった。あちらが押し潰

 されたのだとしたら、こちらは内側から強制的に引き裂かれたというべきか。ど

 ちらにしても、結果は同じだ。

  滴る血と肉片を意識する間もなく、生き残ったボディガードは周囲の異変に気

 づいていた。誰かが何かをかみ砕いているような音が響く度に、ガードを形作る

 コンクリートに、蜘蛛の巣状のひびが刻まれていく。

  ひびは加速度的に広がり、ついにはガードそのものが内側に向かって崩壊して

 いった。崩落の速度は恐ろしく速く、もしそれを目にした物理学者がいたとした

 ら、ありえないと大声で叫んだことだろう。

  私鉄を走る列車の運転手は、僅か数百メートル先で鉄路が陥没して消えるのを

 見た。だが彼はなにひとつとして手を打てなかった。自らが膨れ上がり、そして

 血飛沫となって運転室中に張りつく感覚を最後に、その意識は暗黒に閉ざされて

 いたからだ。

  崩れ落ちる瓦礫に頭を強打され、しかしまだ生きていたボディガードも、それ

 を見ることはなかった。ひょっとしたら幸運だったのかもしれない。同僚の後を

 追って彼女が弾け飛んだ直後の空間に、轟音と共に列車が降ってきた。

  先頭車両が潰れて急停止した衝撃は余すところなく伝わり、後方の車両はくの

 字になり、或いはへの字になり、軌道から外れてもんどりうった。被害は周囲に

 立ち並ぶ家々のまき散らす粉塵の中に隠されて、いまはまだ見えてはこなかった。

 

 

 

  物音に浅い眠りから醒めた桜は、無意識の内に卓上時計に顔を向けていた。放

 射性元素の崩壊が描き出す夜光塗料の黄緑色が、いまが午前二時過ぎだと彼女に

 告げた。

  硬質で小さな響きは、窓から繰り返し聞こえてくる。身を起こした桜は窓際ま

 で歩いてカーテンを引き、鍵を外して僅かに窓を開けた。

  黄金色の小さな物体が、隙間をすり抜けて病室に侵入してきた。

 「すまんな、こない遅くに」

  ケルベロスは言いながら、ベッド脇の棚の上に陣取った。

  さくらは小さく首を振って、ベッドに戻った。ぼんやりと座り、腫れぼったい

 瞼を伏せる。

  しばらくして、

 「……なにも訪かへんのやな」

  さくらは無言だったが、ケルベロスは続けた。

 「ここ数日、街中が騒がしゅうなっとる。あちこちで事故や事件が多発しとるか

 らや。けど、原因ははっきりしとらんらしい。世の中に発表されとらんもんもあ

 るようや。──あの晩あったことみたいにな」

  か細い声が、やめて、と呟いたが、ただ空気に溶けただけだった。

 「ワイはここしばらく、街中を調べとった。事故のあった現場にも行ったわ。確

 かに連中には原因は掴めんやろな。ワイにもそれは解らんかった。けどな、さく

 ら。ワイもさくらも、確かに知っとるんや。尋常でない力を持ったなにかが、あ

 ちこちにうろついとることをな」

  ケルベロスはすう、と浮かび上がり、桜の顔の正面に停滞した。僅かな動きで

 軸線を逸らせる少女に、しかしそれを許さない。

 「わたしには……関係ないもん……」

  悟ったのか、少女が呟いた。

 「確かに。あれがなんなのは解らん。クロウカードでもないやろな」

  実はケルベロスは、その言葉を覚悟の上で口にしていた。そして桜は、彼の覚

 悟を裏切らなかった。自らに有利なはずの一節に、沈黙をもって応えとなしたの

 だ。

  病室の壁に淡い光が縞模様を描き出した。月明かりでもなく、人工の光でもな

 く、恐らくそれを眼にした者に、ひとり残らず死者を送るに相応しい光だと思わ

 せるだろう燐光は、ケルベロスから靄のように立ち昇っていた。

 「せやな……」

  ひとことと共に失せた光は、周囲の空間を引き寄せた。闇に質量が備わったの

 ではないだろうか。

 「さくらがキャプターになったんは偶然や。魔力のあるなしに関わらんと、封印

 の書があの場所にあったんも、さくらがそれに手を掛けたんも。せやから、ワイ

 は責任を取れとは言わん。そもそも責任なんぞあらへんのや。さくらが嫌になっ

 たんなら、別の人間を探すしかないわ。クロウカードをほっぽらかしておくわけ

 にもいかんさかいな」

  最後の一節を、ケルベロスは茶化すように口にした。確かに、と彼は考えてい

 た。欲する者がどれほど望もうとも手に入れられない魔力を、桜は身につけてい

 る。だからといって、年端もいかない少女に捕獲者としての仕事を押しつけるこ

 とは出来ない。そうしてきた結果がこれだ。魔力とは欲するにしても遺棄するに

 しても、融通の利かない厄介な代物であることに違いないのだ。

 「あのひと──は?」

  声に含まれた色の正体を、第三者は窺えなかっただろう。厳寒の最中、頬を撫

 でる春風に心安らかにされ、しかしそんなはずはないと戦いた旅人になら或いは。

 「わからん。奴が何者なのか、ほんまにあそこにおったんか……」

 「そう……」

  やがて桜は、遅々とした動作でその身を横たえた。

  見守っていた守護獣は、辺りを見回してため息をついた。文字通りに寝食を共

 にしてきた相棒の傍らに、己の入り込む隙間は見つけられない。他の場所にそれ

 を求めることも出来ない。どうやらワイは居場所をなくしてしもたらしいわ……。

 

 

 

  彼女らがその場に展開するまでには、多少の悶着を経過しなければならなかっ

 た。総勢四名の有志が本来の職務外の行動を起こすのに、それを避けては通れな

 かったのだ。仲間内での可否論もあったし、行動の自由を得るために、警護すべ

 き、そして従うべき人物に対して虚偽という不忠節も働いた。

  それを一番良く理解しているのは、各個定められた位置に散っている、四人の

 プロフェッショナルに違いなかった。サングラスに隠されてはいるが、その顔に

 浮かぶ、鉛を飲んだような禁忌の気配だけは消しようもない。

  だがそれでも尚──。

  その場にあってリーダー格を自負している鹿屋杞梨は、復讐の二文字を金科玉

 条の上に据えつけて路上に影を落としていた。壮絶な事故に巻き込まれて殉職し

 た二名の内、ひとりの名は、彼女の肌と記憶に深く刻まれていた。恐らく今期の

 任務に志願した三名にしても、それは同じことだろう。だが、と、杞梨はそのこ

 とに関してはさしたる感慨も抱いていなかった。あの娘はたしかに器量も良かっ

 たし、仕事も出来た。慕う者が多かったことが、即ち気が多いということにはな

 らないだろう。

  世間を騒然とさせ、そしていまも尚続いている一大騒乱記の巻頭を華々しく飾

 った列車脱線事故。その現場から発見された数多くの遺体の内、行政からの協力

 要請により、二名の身元確認を行ったのは杞梨であった。被害者に身寄りがない

 以上、直接の上司である彼女にお鉢がまわってくるのは当然として、しかし仮に

 親兄弟がいたとしても、彼らは家族の身元をはっきりとは証明出来なかっただろ

 う。むしろ家族だからこそ、これは家の娘ではありませんと首を振ったに違いな

 い。

  なにしろ発見されたはずの遺体そのものが存在しないのだ。赴いた杞梨に提示

 された物は、彼女らが身につけていたと思われる僅かばかりの遺品のみであった。

 腕時計に、各種免許証、それから身分証明書。警察としても、もしそれらを見つ

 けられなければ、そもそも杞梨に身元確認の依頼すら出来なかったのであろうこ

 とは明白だった。

  確かに私の身内の者が所持していた物です。そう応えた杞梨に、もう一度確認

 の声が掛かった。確かにこの二名は、事故当日より行方不明になっています。応

 えると、では血液型も一致しましたので、そのように確認させて頂きますと係官

 は頭を下げたものである。遺体はと訪ねると、損壊が激しいのでこちらで処置さ

 せて頂きますと返答があった。後日遺骨を送還する旨を述べて、彼らは呼びつけ

 た協力者に、早々のお引き取りを願ったのである。

  職場──大道寺家──に戻った杞梨は、二名の殉職者が出た旨を、知世の母で

 あり、頭角を現して久しい大企業の首領であり、自分たちの雇い主でもある大道

 寺園美に伝えると共に、部下を使って情報の収集に乗り出した。結果はときを置

 かずに彼女の元に届けられ、何故二名の遺体が戻って来ないのかがつまびらかに

 された。決して眼を併せようとしなかった係官の態度が、そのときになって現実

 味という少々厄介な色味を帯び始めたのを杞梨は理解した。

  物事を知らない人間なら──或いは多少の事情を聞き知っている人間なら、調

 査報告の出所と信憑性、なによりその素早さに邪推を逞しくさせたかもしれない

 が、杞梨本人を含めた「システム」の誰ひとりとして、園美の夫である人物とそ

 の職業的特権に個人的な関わりを持っていないことは、彼女らの名誉の為に言明

 しておくべきだろう。

  事故直前の様子は、帰還した者の口から報告を受けていた。明らかに単なる事

 故死ではない同僚の死様と、取るに足らないような──という言葉は職業上厳に

 戒めるべきではあるが──自動車事故に、しかし杞梨が関連性を見つけ出そうと

 したのは無理からぬことでもあった。何故ならば発端となった暴走車の運転手と、

 悲運な列車の運転手の遺体もまた、親族の元に帰っていないと知らされたからだ。

  そしてなによりも、杞梨は知世付きのボディガードとして、少女の交遊関係を

 知り尽くしていた。深夜、母親には内密にとの命を受け、彼女を様々な場所に護

 送したのは杞梨である。そこで何が行われているのか杞梨は訪かなかったし、少

 女も口にしなかった。だが、それを知られていないと思っているのは、そう思わ

 されていると気づいていない、聡明な、しかし幼い少女だけであった。

  要警護者である知世に、ある意味プライバシーは存在していない。命令には従

 うし、余計なことには口を挿まない従順なボディガードは、しかし知世に仕えて

 いるわけではないのだ。彼女らが仕えているのはあくまで園美であり、園美の依

 頼により知世をガードしているに過ぎない。だから、必要とあらば、ありとあら

 ゆる情報を杞梨は寄せ集められるのだ。二十四時間、それこそ秒刻みで少女の日

 常を再現出来るほどに。そして彼女は、それを最大限活用していた。

  元々杞梨は、ボディガードとしての訓練を積む段に当たり、とある修験者道場

 に通い、自らを鍛えた経験を持っていた。それは彼女が霊的な現象に興味を持っ

 ていたからではなく、大道寺家に仕える以前に所属していた警備会社の方針に従

 っただけのことではあったのだが、確かにその場で見せつけられた現象の数々に

 は感銘を受けたものである。彼女自身はそれを幸運と信じて疑っていないのだが、

 杞梨にはまったく霊的な才能が備わっていなかった。にも係わらず、その道では

 高名だという人物の披露した不可思議な現象は、嘘も偽りもないのだと理解せざ

 るをえなかったのだ。真偽のほどは別として、警護史のそこかしこに暗澹とした

 陰を落とす呪術などを用いた霊的な攻撃に対しての理解と対応を、彼女はこの時

 期に身につけていた。

  確かに警護する対象の少女が、かつては絵空事とも考えていたような現象に首

 を突っ込んでいると知ったときには驚きもしたが、杞梨は経験を踏まえ、それを

 事実としてすんなりと受け止めた上で、素早く各種の計算を行ったのである。

  結果は、問題なし──であった。どちらかといえば直接的にそれに関わってい

 るのは知世が心酔している友人のほうで、知世自身には大した危険もなく、それ

 を楽しんでいるように見受けられたからだ。それに知世をガードするに当たり、

 園美より娘の自主性は尊重して欲しいとの達しもあったので、もちろん事態が変

 わった場合にはその限りではないが、当面は秘密の「遊戯」を容認しようと彼女

 は考えているのだった。ボディガードとは要警護者を危険から遠ざけるのではな

 く、その場その場において降りかかった危険から護るものだと彼女は叩き込まれ

 てきていた。もちろんだから、知世がそれを知られたくないと思っている以上は

 自分も気づかないふりをしていたし、他の誰にも口外していなかった。

  深夜の密会に出掛けた知世。直後に入院という事態に見舞われた少女。偶然と

 も必然とも取れる自動車事故に、変死を遂げた人々と、それに続く原因不明と謳

 われる各種事件の頻発。入手出来た情報を元に行動を起こすのであれば、唯一大

 きくそれに係わっている人物をマークして、然るべき処置を採る他に道はない。

  だから杞梨はその場にいた。

  そこは穏やかで上品な、プチブルジョア階級の家々が建ち並ぶ、どこか日本離

 れした閑静な住宅街であった。とはいえ、流石にサングラスにスーツという、全

 身黒ずくめの人物がうろついていれば、不審人物として通報されるのは免れない

 であろうことは容易に想像出来る程度の、という注釈はついてしまうが。

  しかしいまのところ、四名は何者にも邪魔をされずにいるし、それぞれの者が

 そうならないであろうことについては確固たる自信を持っていた。二階建ての洒

 落た洋風家屋の周辺に効率的に張りついた彼女らは、一度ならず通行人の眼に留

 まってはいた。だが、誰ひとりとしてそれを意識せずに行き過ぎたのである。な

 るほど、確かに彼女らは一流のボディガードに違いない。

  そろそろか、と視線を巡らせた杞梨の眼に、ひとりの少女の姿が映った。連絡

 を受けて二十数分。計算通りであった。

  少女はぼんやりと路面を見つめながら、活発そうな外見とは相いれない仕種で

 自宅の鍵を開け、玄関の中に消えていった。

  杞梨には少女の落胆の理由が、全てとはいわないまでも解っていた。何人であ

 ろうと知世と逢わせてはならないと指示を出したのは、誰あろう彼女なのだ。自

 動車事故の原因が知世を狙ったものだと立証出来ない以上、軟禁は行きすぎでは

 ないかと苦言を呈した園美に、念には念をと言い含めたのも。

  復讐には時間が要る。四名は辛抱強くそのときを待った。

  3.

 

  冷蔵庫に納まっていた麦茶で喉を潤した桜は、そのまま二階の自室に脚を向け

 た。

 「おかしいよ、こんなの……」

  呟いて、ベッドに身体を投げ出す。熱っせられて膨張している空気が渦を巻い

 て、その後を追った。部屋の窓は閉め切られたままで、他にそこを乱すものは存

 在していない。

  じんわりと広がる疲労には、やるせない腹立たしさがたっぷりと含まれている。

 桜にとって、それは始めて経験する、極めて不快な感覚だった。

  あれから何日経ったのだろう? 少女は胸の内で指を折った。

  ──五日だ。五日前を境にして、ぱったり知世との連絡がつかなくなってしま

 ったのである。足しげく見舞ってくれた親友はその香りさえ届けてはくれず、三

 日前に退院してからは、何度も連絡をつけようと電話も入れてみた。が、受話器

 の向こうから響いてくるのは、話し中を示すぶつ切りの電子音のみ。

  ついに今日になって知世の自宅に赴いてみたものの、申し訳ありませんが、お

 嬢様は何方ともお逢いにならないそうです、とのメッセージを聞かされただけで、

 呆気なく門前払いの憂き目である。しかし、インターフォン越しのメイドの声は、

 勘のいい桜でなくとも解るほどに戸惑いを色濃く滲ませていた。恐らく己の台詞

 に一番納得していないのは、彼女自身だったに違いない。

  何かがあったのだろうか。桜は考えようとしたが、無理に思考を停止させた。

 何かを思うにつけ、どうしても恐怖感が先に立ってしまう。すべてが悪い方向に

 行くような気がして、いたたまれなくなるのだ。街中で発生している事故や事件

 のこともある。現実とは鋭く爪を研ぎながら暗闇に潜み、そうであろう、いや、

 そうではないのだと葛藤する、心の隙間に襲いかかってくるものだ。

  ぼんやりした不安定な思考の停滞は、やがて少女の身体までをも支配して、そ

 の四肢をぐったりと弛緩させるに至った。眠ることに心の平穏を求めるのは、い

 まの桜に出来る最大の自発的行為であった。

  ベッドにつっ伏したまま、全身汗みずくになってうつらうつらしていると、ふ

 いに消え入りそうな意識の隙間から、嫌になるくらいはっきりとした記憶が飛び

 出してきた。

 「そうだった……」

  ねばつくひとり言に眉を顰めながら、それでも驚異的な意思の力でベッドから

 身体を引き剥がす。家事全てを持ち回りの分担制と定めている家庭にあって、今

 日は自分が夕食当番であったことを思い出したのだ。時刻は午後三時を回ってい

 る。そろそろ支度に取りかからねば、退院したとはいえ病み上がりの娘を気遣う

 父親の帰宅時間に間に合わなくなる。

  汗を吸って重くなった外出着を脱ぎ去り、新しいシャツに手を延ばしたところ

 で、ふいに桜の全身に鳥肌が立った。

  ほぼ同時に階下から──その更に下から、少女の名を呼ぶ切羽詰まった叫び声

 が響いてきた。遮蔽物に音量を失ったそれは冥府の底からの風にも似て、見慣れ

 た部屋の景色をモノクロームの中に塗り込めんばかりであった。

  尋常ならざる悪寒に悪夢を呼び覚まされ、反射的に吐き気を覚えかけた桜は、

 しかしすぐに部屋を飛び出し、スリップ姿のままひと足飛びに階段を駆け降りた。

 この感覚は、違う。未知のそれではなく、細胞のひとつひとつにまで染み込んで

 いる、馴染みのあるそれだ。でもどうして──?

  滑りやすい廊下を抜け、半地下室の状態で造り付けられた父の書庫へと続く扉

 を開け放つ。

 「きゃ──」

  すさまじい風圧と音圧が、桜を木の葉のように翻弄した。いかなる力が働いて

 いたものか、外には微々たる兆候も漏らさずに、しかし室内はさながら荒れ狂う

 大海と化していたのである。

  壁際まで吹き飛ばされた桜は、叩きつけられる水飛沫と風、それから耳を聾す

 る轟音に逆らい、必死になって間口に頭を突っ込んだ。

  酷い有り様だった。下方に続く階段の先では雷光が瞬き、渦を巻いた暴風に黒

 雲が千切れ飛び、豪雨と共に書籍を弄んでいる。立ち並んだ書架は悉く倒壊して

 おり、その最中には見間違うはずもない白刃がきらめき、壁には癇癪を起こした

 子供が──それは透明で恐ろしい力を持った子供が──力任せに殴りつけている

 のではないかと思わせるクレーターが、見ている傍から増えていく。おまけに辺

 り一面にうねっているのは、節くれだった木の枝に違いない。よく見れば色とり

 どりの花までも散っている。それに他にも──。

 「さくら!」

  狂気の渦中から、守護獣が這々の体で退避してきた。

 「ケロちゃん、どうしちゃったの!?」

 「カードが──封印の書が──」

  言われて、桜は認めた。騒々しいにもほどがある狂乱の中心部に粛然と浮かぶ、

 血を滴らせているような暗赤褐色のハードカバーの本を。間違いなくクロウカー

 ドを納めるべく存在している封印の書だ。狂乱の中心にあって、それを引き起し

 ている原因となっているのか、或いは──束縛されているのか。

 「暴走してる……」

  呟きは本人の耳にも届かなかったが、桜は悟っていた。これまでに狩り集めて

 きたクロウカードが、契約者の意思を離れてその力を撒き散らしているのだ。そ

 れも一斉蜂起である。以前、封印を施す前のカードが、まさにこの場所で暴れた

 ことがあったが、その比ではない。ひとつひとつのカードの気配が、塊となって

 全身を叩く。

 「なにしたのよ!?」

  突き動かされて詰め寄った。退院するなり桜が一番にしたことは、自室に保管

 していた封印の書を、始めて眼にしたこの場所へと移すことだった。ぎくしゃく

 した空気を察したのか、ケルベロスもその場に留まり、滅多に顔を見せなくなっ

 ていた。ならばこの異変を引き起こせるのは、最もクロウカードの近くにいた封

 印の獣しかあり得ない。だが──そうでなかったとしたら?

 「知らん、ワイはなんもしとらへん!」

  恐れていた返答に身もすくんだ桜は、

 「あっ!?」

  と小さく叫んでそれを凝視した。

  猛威を揮っていた現象のひとつひとつが、ふいに凝縮を開始していた。陽炎を

 限界まで圧縮したような奇妙な発光球となり、それぞれが螺旋を描きながら絡み

 あい渦を巻く。幾何学的にも、まるででたらめにも見える燐光の軌跡が、見てい

 る者の眼から焦点を奪う。

  目眩に頭を振っている暇もなく、天井付近に設置してあった採光窓が手を触れ

 る者もないまま開け放たれた。それを認めたのか、光球の群れがやおら出口を目

 指して殺到する。

  成す術もなく見送った桜に、気違いじみた甲高い音が終焉を告げた。窓の閉じ

 るその音を最後に、一切の気配が途絶えたのだ。いや、糸が切れたかのように落

 下した封印の書の床に弾ける音が、少し遅れてやって来た。開いたままの本の中

 には、何も残ってはいなかった。

  ややあって、桜は転がるように地下への階段を駆け降りた。落ちるグラスを受

 け止めるべくしたように、反射的な衝動に突き動かされたのだった。

  床に着いた足に水の感触。そして勢いを殺せぬままに踏み出したその足を、濡

 れてふやけた書物がすくい投げた。

  派手に転んだ少女の身体が水飛沫を生んだが、そうなる前から既にずぶ濡れだ

 った。

 「さくら……」

  気遣わしげに宙を滑り寄った守護獣が見守る下から、

 「どうして……」

  と桜はのろのろと身を起こした。書架の破片で切ったのだろうか、腕から微か

 に出血している。

 「どうしてこんな──わたしなんにもしてないよ!?」

  後半、彼女の声は激しく昂っていた。

  無駄な質問であることを、桜は悟っていた。だが、ちらつく考えを、そして恐

 らくはそれが回答なのであろう事柄を、どうしても口には出来なかったのだ。破

 壊の跡を残して去っていった魔力のひとつが、あのとき<それ>に示した敬意を

 忘れてはいない。

 「わからん……こんなことはありえんはずや……」

 「でもほら、見てよ!」

  両手で示された惨状に、守護獣は声もなかった。

 「ひどいよ、こんな目茶苦茶にして。お父さんの本を……こんなにして……」

  言いながら少女は泣いていた。その理由がどこかおかしいことに、しかし彼女

 は気づかない振りをしていた。

  だから守護獣は、ただひと言、すまないと述べたのだった。

  正体のない謝罪に、

 「あなた、封印の獣なんでしょう? クロウカードを封印しておくのが役目なん

 でしょう? だったらどうしてそれが出来ないの? カードは契約者の意思に従

 うって言ってたじゃない。どうしてわたしがなにもしてないのに、勝手に出てい

 っちゃったのよ? ねえ、どうして? なにひとつわからないなんて、まるで役

 に立たないじゃない!」

  血を吐くように──まさに経験したときと同じように──桜は糾弾した。本来

 の力を保っているならばともかく、守護獣が司る、そしてその力の源たる地と火

 の属性を持つカードが失われているいまの状態で、彼にそれが出来ないことを承

 知の上でだ。

  うなだれた守護獣からの返答はなかったが、寸刻遅れて奇妙な場所からそれは

 やって来た。

 

 

 

 「そいつは、彼には過ぎたる責任だ」

  心臓も止まらんばかりに驚いたひとりと一匹が振り向いた先に、黒い若者の姿

 があった。

 「こんちは」

  注目を浴びた若者は、にこやかに片手を挙げてそう言った。

  歳は恐らく二十代の半ば。百九十センチを超える長身を、趣味なのか、それと

 も別の理由があるのか、この真夏の最中、黒い革のスーツで包んでいる。所々に

 打たれた銀色の鋲のせいでもあるまいが、その痩身には刃物めいた陰がつきまと

 っていた。

  そしてそのてっぺんに据えつけられているのは、端正な、しかしどこか古風な

 匂いのする顔である。不精髭が目立つ、細いが、がっしりした顎。定規で引いた

 ような鼻梁。自然に開かれた瞼の下には、恐ろしいほどに鮮やかな碧眼が嵌まり、

 殊更の手入れをしているようには見えない短めの頭髪は、くすんだような金髪だ

 った。──流暢な日本語を操る若者は、間違いなく白人である。それもアングロ

 サクソン。イギリス系だろうか?

  桜は、しかしそのことにはあまり関心を抱いていなかった。あのひとはいつこ

 こにやって来たのだろう?

  若者はすぐ目の前に立っている。見ず知らずの、しかも施錠された他人の家に

 上がり込み、一階から間口を抜け、階段を降り、水の溜まる床を数歩踏みしめな

 ければ、その場所には到達出来ない。桜も、守護獣も、その音はまったく聞かな

 かったし、気配すら感じなかった。まるで忽然と現れたのか、さもなければ永劫

 の過去よりその場に在ったとしか思えない。

  呆気にとられている家人に、何を思ったのか闖入者である若者は、居心地が悪

 そうに頭を掻いた。

  それから尤もらしく咳払いをして、

 「あんまりひとに見られるって経験がないもんでね。そう見つめられると流石に

 照れる」

  と悪気のかけらもなく破顔した。ひとを小馬鹿にしたような態度は、それを通

 り越して爽やかですらあった。

  それでも反応がないのを確認して、若者は懐に手を差し入れた。

  流石に身構えた桜だったが、現れた物を見て息を飲んだ。

 「これ、嬢ちゃんのだろう? そこで捕まえたんだ。何枚か逃がしちまったけど」

  取り出されたのは、間違いなく数枚のクロウカードだった。術者とカードの間

 に取り交わされた、契約の証として記された「SAKURA」の文字を見るまで

 もなく、ついいましがた束縛から解き放たれた物である。

 「どうする? おれが預かっていてもいいんだけどな。やっぱり返して欲しい?」

 「──おまえ、何者や!?」

  あくまでも凡庸とした若者の態度に、ここに至ってケルベロスが厳しく誰何に

 乗り出した。桜を庇うようにふたりの間に割って入る。

 「さて──これは中々難しい質問だよな。己が何者であるのか……」

 「ふざけるなや!?」

  生真面目な顔で言う若者に叱咤が飛ぶと、彼はひょいと肩を竦めてみせた。そ

 のせいかどうか、桜も、当事者であるケルベロスも、彼が空飛ぶぬいぐるみが喋

 っているとしか思えない、封印の獣を前にして平然としていられることに微塵の

 疑問も抱かなかった。

 「ふざけてるわけじゃないさ。名前なら応えられるよ。ハイドだ。その他は──

 秘密」

 「応えになっとらん!」

 「だからさ、秘密なんだってばよ。──どうする?」

  どうする、とは桜に向けられた質問だ。

  桜は無言で、ただ頷いた。

  それをどう受け取ったのか、

 「そうか。なら返すよ」

  と若者──ハイドはカードを手渡した。

  それから、

 「そのかわり、きっちり管理しといてくれ。あんまりこいつらに暴れられるとな、

 少しばかり迷惑なんだ」

 「どういう意味や?」

  守護獣が口を挿んだが、

 「あんた、封印の獣だろ?」

  質問に質問で応えたハイドは、いつの間に取り出していたのか両切りの煙草を

 一本くわえていた。桜に一服つけてもいいかなと訪ね、しかし返答がある前にオ

 イルライターが澄んだ音と共に炎を灯していた。

 「……だったらなんや?」

 「確かにあんたの手には余るかもしれないけどな、出来るだけ連中を抑えといて

 くれ。そうだな、騒ぎが収まるまではカードを使わないほうがいいだろう。新し

 いカードを狩りにいくのもやめといたほうがいい。まあ、これは忠告だけどな」

 「なんやおまえ、キャプターなんか?」

 「いいや。おれはクロウカードとは関係ないよ」

 「だったらなんで──」

  そこで封印の獣は声を失った。まとわりつく紫煙に激しく咳き込んだからだ。

  ハイドは楽しそうにその様子を眺めていたが、

 「あなた……」

  と言われて下方に視線を寄せた。

 「ん?」

 「あなた……あのときの……?」

  身を庇うように両手を胸の前で組み、桜は上目遣いのまま一歩退いた。

  ハイドは秋風を思わせる微笑を浮かべた。

 「まあ、ね。嬢ちゃん、怪我は?」

 「え? ええと、うん、大丈夫だけど……」

 「そうか。そりゃよかった。わるかったなあ、もう少し速く行けたら良かったん

 だけどな。中々気配を探るのが難しくてさ。まさかあれを嗅ぎつけてくる人間が

 がいるとも思わなかったしな」

  言葉に併せ、くわえ煙草が上下に跳ねる。

  桜はじっとそれを見つめながら、意外にも平静でいられる自分に驚いていた。

  人知では測り知れない力を秘めた何物かを、いとも簡単に鎮めてしまったあの

 人影。それが自分なのだと、目の前の男は認めたのだ。だとするならば、この男

 の力はどれほどのものなのだろう。それなのに──ちっとも恐ろしくはないのだ。

  まったく奇妙な男だった。自分で秘密だと述べておきながら、確かに尋常では

 ない物事に関わっているのだと認めてしまうのも、それだけの力がありながら微

 かにでもそれを感じさせない雰囲気も。確かに刃物のような鋭さは感じられるが、

 それを遙に凌ぐ茫洋たる気配がすべての角を包み込んでいる。これでは刃物は刃

 物でも、役に立たないなまくらだ。本当にこの男があのときの人影なのだろうか

 と、俄には信じ難い思いを抱いた桜の心情も、こうなると無理もない。

  ぽろりと煙草の先から灰が落ちた。気づいたハイドは勿体ないと言わんばかり

 に、くゆらせたままだったそれを深々と肺に送り込んだ。

  ぐっと拳を握り、

 「あの──」

  と桜は言った。あまりの大声に俯いてしまい、しかし顔を上げる。

 「あれは一体なんなんですか? 騒ぎって、街中で起こっている事件や事故のこ

 とですよね? なにかそれと関係してるんですか? どうしてクロウカードが勝

 手に──」

 「風邪、ひくぞ」

  ふいにそんなことを言われた。

 「──え?」

 「そんな刺激的な恰好してるとさ、風邪ひいちゃうぞ」

 「あっ……」

  桜は慌てて我が身を抱いた。いまのいままで自分がとんな有り様だったのかを

 失念していたのだ。水に濡れたスリップが身体に張りつき、すっかり肌を露にし

 ている。いかに少女といえど、見ず知らずの男の眼に、そんな姿は晒したくない

 らしい。

  ハイドは呵々と笑い飛ばし、じゃあなと述べて背を向けた。

  それがあまりにも自然だったので、桜どころか守護獣までもが、暫し後ろ姿を

 黙って見送ってしまった。まるで旧来の友と日常の別れの挨拶を交わしたような、

 そんな錯覚に陥っていたのだ。

  漸く後を追えたのは、ハイドが間口の向こうに消える寸前だった。

 「待って!」

  階段を駆け上がって叫んだ桜に、後ろ姿の男は顔も向けないまま、親指を一点

 に向けて指し示した。

  何故か逆らえずにその先を追った桜は、嬉しさと恐ろしさのない混ぜになった、

 複雑な感情に襲われた。

  数秒その場を離れただけだった地下室は、しかし数十分前のたたずまいを取り

 戻していたのだ。書架は整然と並び、書物は陰鬱にそこに収まっている。壁は経

 時年数に見合った色合いで沈黙し、空気中に漂う僅かな黴の匂いさえ感じられた。

  再び男の姿を求めたときには、埃っぽく漂う煙草の香りの向こうから、玄関の

 ドアの閉まる音だけが響いてきた。

 

 

 

  4.

 

  木之本家を後にしたハイドは、奇妙な行動をとった。もちろん本人にそのつも

 りはないのだろうが、それ相応の考えと理由があって尾行を続ける杞梨にしてみ

 れば、そうとしか思えなかったのである。

  桜の、そして木之本家の人々の交遊関係は、事前情報としてすべてリストアッ

 プされていたが、その男の顔だけは、どこをひっくり返してみても現れては来な

 かった。

  そんな男がふいに玄関を抜けてきたという衝撃は、杞梨に少なからず動揺を与

 えた。なにしろ桜が帰宅するまで家内が無人であることは確認していたし、その

 後から訪問した者も確認していない。家の裏手に配置した者から、発生源は掴め

 ないものの、激しく窓を開閉させたような音に続いて、これもまた正体不明の現

 象──彼女の言葉によれば陽炎を伴った上昇気流──を確認したという報告が入

 り、すわ、と色めきだった直後に、存在しないはずの男が平然と現れたのだから

 無理もない。

  が、彼女はすぐに平静を取り戻した。実のところ、衝撃から喜色へと変化した

 それを、再び平常に落ちつかせたのだ。彼女らが求めていたのは、まさに常識を

 打ち砕くような現象だった。それがこうも早く、目に見える形で現れようとは。

  杞梨は一名を木之本家の監視の為に残し、総勢三名で男の後をつけた。まるで

 周囲に気を払っていない男をつけるのにさしたる苦労はなかったが、それでも彼

 女は慎重だった。あの程度の人物など、自分ひとりだけでも十分だというプライ

 ドはあったが、それに命までは賭けていないのだ。そんなものにこだわっている

 者など、二流どころか三流にさえなれない。

  やがて、杞梨は自分の判断の正さを感じるようになった。行くあてがあるのか

 ないのか、男はふらふらと辺りを彷徨い歩いた。住宅街を練り歩き、公園で一服

 つけ、それからまた歩き出す。この覇気のかけらもない行動の最中、しかしプロ

 である彼女らは、一度ならず男を見失いかけたのである。

  確かに視界の中に男はいる。それなのに、白昼の月の如く、意識していないと

 すぐにその姿がぼやけてしまうのだ。まるで網膜の捉えた映像を、脳が否定して

 いるかのようだった。ともすると、自分たちがなにをしているのかさえ失念しそ

 うになる。もしかすると張り込んでいた場所に男が入るのを見なかったのではな

 くて、それに気づかなかっただけなのかもしれない。

  日本人の中に在って、アングロサクソンは一種独特の雰囲気を醸し出す。農耕

 民族と狩猟民族の違いといえばいいのか、羊群の中の狼のような存在だ。しかも

 その男は、くすんではいるが、少し磨けばそこらのモデルが裸足で逃げ出しそう

 な美男である。道行く人々の──特に女の気をひく要素をたっぷり含んでいなが

 ら、誰ひとりとして行き過ぎる長身の外人に眼もくれないのだ。まったくもって

 不自然極まりない。

  尾行を始めて一時間半ほど経過したころ、駅に程近い繁華街の外れに辿り着い

 ていたハイドは、ひょいとばかりに騒音を撒き散らしている工事現場に入って行

 った。木之本家のある住宅街から、およそ車で十五分程度の距離になるだろうか。

  そこは周囲を古くからの商店や貸しビルに囲まれた場所で、寂れた印象の漂う

 一角だった。まあ、地元の人間に言わせるならば、新興著しいニュータウンにあ

 って、昔ながらの雰囲気を保っている貴重な場所、ということになるのかもしれ

 ないが。

  鉄柵で外界から隔てられた工事現場の中央には、古ぼけた五階建てのビルが鎮

 座している。窓硝子も見当たらないそれは、いままさに解体作業を受けているに

 違いない。

  ハイドの姿は、そのビルの中へと消えていった。用向きがあるようには見受け

 られなかったが、極めて自然な足取りだ。忙しく立ち働く現場の作業員は、誰ひ

 とりとしてそれを咎めなかった。が、それが即ちハイドが侵入者でないことの証

 にはならないだろう。入出口兼資材搬出口であるゲートに詰めている警備員を始

 めとして、その姿を見た者が──いや、それに気づいた者がいなかっただけのこ

 とだ。

  杞梨はそれを確認して、待つことに決めた。ビルの周囲に見張りを配し、自分

 は正面ゲート付近に陣取った。

  それから三十分もしないうちに、三々五々作業員が引き上げ始めた。騒音が消

 え、車両が運び出されて辺りに静寂が戻ると、最後に警備員がゲートを閉めて帰

 っていった。夏の夕刻、まだ十分に陽は残っているが、それほど急ぐ仕事でもな

 いのだろう。

  杞梨は更に十分待ってから、行動を開始した。そもそも彼女の目的は、同僚を

 死に追いやった不可思議な現象をつきとめ、存在するならばそれを操る人物、若

 しくは何物かに責任を問うことにある。それがいかなる現象であり、意思である

 のかが解らない以上、現在唯一それに関わっている、若しくは近い位置にいるで

 あろうと目される人物に、ことの真意を求める以外に道はない。或いは尾行を続

 ける上でなにか重要な情報を得られるかとも考えてはいたが、どうやらそれも期

 待出来そうにはなかった。それならば直接逢って確かめるしかないだろう。

  杞梨は監視役の人間をひとり残し、二名となって鉄柵内に侵入した。元より飾

 り程度のそれを突破するのに難はなかった。

  本来はドアがあったであろう小さな入口を潜ると、ビル内の荒れようがはっき

 りとした。薄暗い廊下は粉塵が描く足跡に乱され、壁には幾筋もの亀裂が走って

 いる。天井のパネルは所々取り外され、構造材や配線がはみ出していた。傾いて

 ぶら下がっている照明器具に、本来の機能を求めるのは不可能だろう。

  廃棄された建物は、どうやらこれも事務所専門の貸しビルとして使われていた

 ようだった。狭い廊下の片側にいくつも小さな部屋が並び、その中にはビルの設

 立時にまで逆上るような、現在では珍しい木製のデスクなどが取り残されている

 場所もあった。

  入口を塞ぐドアもなく、窓を覆う硝子もなく、吹きさらしとなったビル内には、

 しかし微かな風も感じられない。外界の喧騒も届かずに、ただどこかで鳴いてい

 るひぐらしの声だけが薄明の中に潜んでいるのだ。その他に感じられるものとい

 えば、大勢の人間が発散していたであろう気配の残骸とでもいうような、肌に感

 じるざわめきだけである。それが先程まで働いていた作業員のものなのか、それ

 ともずっと以前の──数十年間の──ものなのかは解らない。

  ふたりの女は共に、襲い来る郷愁に似た恐怖──子供のころに友達と出掛けた、

 幽霊屋敷と呼ばれた廃屋で感じた気配──を押し殺し、吹き出す汗に耐えながら

 探索を続けた。

  一階に人影はなく、短い階段の上にある二階にもそれはなかった。

  三階に到達した瞬間、杞梨は湿った熱気の中に、微かな異臭を感知した。

  鼻に刺さるそれをすぐに塩素ガスと判断して同僚に伝えたが、彼女もそれは認

 識していたらしく、問題ないとの頷きが返ってきた。

  どうやらガスの量は微量で、影響はないようだった。なにしろ解体作業中の工

 事現場だ。様々な薬品があってもおかしくはないし、いまの世の中、化学製品な

 ど珍しくもない。この程度ならば、気にするまでもないのだった。

  しかし、それでも杞梨は呼吸量を抑えて先に進んだ。彼女がその仇を討とうと

 腐心している、かつての同僚がそうしたように。

  進むにつれて、若干ガスの濃度が高くなった。次第に杞梨の脚はそちらに向い

 ていった。なんであれ五感に訴えかける異変である。見過ごすのは賢いやり方で

 はないだろう。

  邂逅は突如としてやって来た。

  階段から一番遠い、突き当たりにある部屋に男はいた。気配を察しきれなかっ

 た杞梨が、身を隠すことも出来ずに立ってしまった入口の向こう。がらんとした

 部屋の真ん中だ。男はなにやら屈み込み、目の前の床に置いたバケツを見つめて

 いた。赤く塗られたそれには防火用の文字が白く記されている。

  杞梨は往くか退くかを瞬くばかりの時間で選択して、結局その場から動かなか

 った。男の身体は出入口──自分の方向に向けられていたし、実のところ何をす

 る暇もないうちに、その顔がすい、と上がってしまったのだ。

  じっと立ち尽くす相手に向かい、

 「まったく」

  とハイドは顔の前で手を振り、空気を乱した。

 「混ぜるな危険って書いてあったからさ、ちょいと試してみたんだが、こりゃあ

 すごいもんだな。くらくらしてくる」

  言いながら立ち上がった足元には、ビルに置いてあったのものか、それとも業

 者が持ち込んだものだろうか、二種類の洗剤の容器が置かれていた。塩素を使用

 した物と、酸を使用した物。ふたつを混ぜ合わせると、簡単な化学反応を経て人

 体に有害な塩素ガスが発生する。どうやら彼は、注意書の真意を確かめようとし

 たのか、バケツの中でそれを行ったらしい。周囲には薄く、しかし例の異臭が立

 ち込めている。

  言葉の割にはにこにこしながら、

 「いまの世の中、おっかないもんが沢山あるんだな。錬金術師が滅びたのも無理

 はない。これじゃ、命がいくつあっても足りないからな」

  とひとり頷いている。

  分別臭い言葉をそのまま受け取れば、どうやら彼は二種の物質の持つ危険性に、

 いま始めて気づいたようである。昨今では小学生でさえ常識と受け止めている事

 柄をだ。そのくせ錬金術ときた。いったいどんな人生を歩んできたのか?

  いや、それよりも。杞梨は平然と──少なくとも外見は──しながら考えてい

 た。ふいに現れた人影に、臆した様子もなく笑いかける男の態度。尾行を気づか

 れた気遣いはなかったが、ひょっとするとそうではなく、これは罠だったのでは

 ないだろうか?

 「おまえは何者だ」

  脇に控える仲間に、彼女にだけ理解出来る指示を送りながら詰問する。指先の

 微かな動きで行う意思の疎通だ。それはその場を動くなと伝えていた。まだ彼女

 の存在は壁に阻まれていて、男には気づかれていないかもしれない。

 「ハイド。日に二度も名乗るなんざ、始めての経験だ。──ところで、おれにな

 にか用でも?」

 「ここでなにをしている」

 「あ、このビルのひと? いやあ、ちょっと寝床を借りようと思って」

  決まり悪そうに言う姿に演技の色は見受けられなかったが、だとするならば大

 した男だった。それとも単なる馬鹿者なのか。杞梨は前者と取った。痩せ過ぎの

 体躯に殺気は感じられないが、得体のしれない相手に油断は禁物だ。

 「訪きたいことがある」

 「はあ」

 「おまえは何者だ」

  同じ質問は、しかしそうではない。

  果してそれを理解したのか、

 「秘密」

  とハイドは応えた。

  殊更の感情も見せずに、杞梨は続けた。

 「私の仲間が死んだ。私はその責任を負うべきものを探している」

 「ほう、仇を? ──あんた、このビルのひとじゃない?」

 「そうだ」

  二種類の質問に、肯定は一度で応えた。

  ハイドはすぐさま肩を竦め、

 「おれじゃないぜ」

 「かもしれないし、そうではないかもしれない」

 「疑わしきは罰せず、だ。なぜおれを?」

 「目下のところ、不審人物の最有力候補だ」

 「理由は?」

 「木之元桜との関係」

 「なるほど」

  あっさりと認めたハイドは、

 「けど、そこらで起こってるごたごたは、おれがしてるわけじゃないんだぞ」

  と自己弁護をたっぷりと含ませた声音で言った。

 「つまり理由は知っている」

  あ、という顔をしたのはハイドだが、杞梨はにこりともしなかった。この男の

 態度に、そろそろ慣れてきたからだ。

 「自分がしているわけではないが、なにが起こっているのかは知っている口ぶり

 だ。そう言い切れる理由を聞かせてもらいたい」

  ハイドは、ちぇ、と舌を鳴らした。

 「邪推だよ。おれはなにも知らない──とは言えないかもしれない」

  両手を挙げてホールド・アップとなったハイドの胸に、銃口はぴたりとポイン

 トされている。懐から取り出した自動拳銃の内部で、初弾は既に薬室に送り込ま

 れていた。トリガーに掛けた指に少し力を込めただけで──いや、この使用者に

 あってはそう意識しただけで、メタルコーティングも施されていない鉛の弾頭は、

 初速を保ったままターゲットに命中するだろう。

 「確かにすべては私の推測の元に行われてはいるが、あながち的外れでもなかっ

 たようだ」

 「認めるよ。けど、言えないものは言えない」

 「命を賭してもか」

 「なあ──」

  とハイドは脚の位置を踏みかえた。

 「おれは、これでなかなかの悪党でね。あまり他人の命については頓着しないほ

 うなんだ。特に自分の命と天秤に掛けた場合は」

  物騒な台詞を吐いた男は、それでも悠然と構えていた。微笑を浮かべた口許も、

 友好的とさえいえる口調も、面倒だと言わんばかりの雰囲気も、なにひとつとし

 て先程までとの違いはない。

  それなのに──。杞梨は慄然としていた。殺してはならないと叫ぶ思考に逆ら

 って、身体が勝手な反応を見せたのだ。瞬時も置かずに手にした凶器が火を吹く

 に違いない。

  が、そうはならなかった。死を与えるはずだった銃は床に落ち、続いて彼女の

 身体が膝から崩れ落ちた。

 「中毒は怖い」

  相変わらず両手を掲げたまま、ハイドはしみじみと言った。

  杞梨は必死に身体のコントロールを取り戻そうとしたが、どうやら巧くいきそ

 うもなかった。全身の虚脱感と倦怠感。激しい頭痛と吐き気。霞のかかった思考

 は、それを塩素ガス中毒だと告げていた。室内に漂う程度の濃度では元より中毒

 に陥る心配はなかった。それでも十分に気を払っていたはずなのに、一体いつか

 ら?

  ハイドはバケツをこんと蹴飛ばして、ゆっくりと倒れた女に近づいた。彼はそ

 れを知っていたのだろうか。バケツから発生した高濃度の塩素ガスが拡散するこ

 とを嫌い、生き物のように床を這い、杞梨の脚を昇り、その顔を覆っていたこと

 を。しかも鋭敏な嗅覚を騙しながらだ。

 「さて──」

  腰を落とした男の手が、女のサングラスを奪った。現れたのは、恨悔の念と怒

 りと、そして苦痛に揺らめく美しい瞳だった。切れ長の眼に相応しく、彼女の顔

 は魅力的だった。

 「しばらく女とは疎遠だった。折角だから穴埋めに協力してもらおう」

  言うなりぐったりとした身体を抱き寄せ、その唇を奪った。

  口内に侵入してきた舌を噛み切ろうとして、しかし杞梨の意思は糖蜜のように

 溶解した。不自由ながらも力を込めていた顎からは険が消え、吐息と共に唾液が

 糸を引いて落ちた。そうされた瞬間に、彼女は性行為だけを求める淫らな存在と

 化していたのだ。

 「ああ──」

  と呻いた声には、少女のような恥じらいが含まれている。三十を目前に控えた

 女盛りの身体は、しかし「男」を相手にした経験は数えるほどしかなかったので

 ある。

  だがこの乱れ振りはどうか。ガスに侵され身動きもままならないはずの肢体を

 くねらせ、乳房を男に差し出しては早くしてとねだるのだ。

  そして、女体を貪るハイドのおぞましさ。大丈夫かと差し延べられるべき腕は、

 肉の音が聞こえてきそうなほどに乳房を握っては刺激を送り続けている。人道に

 もとる行為に、まるで罪悪感のかけらも見せはしない。

 「こっちも、刺激して……」

  男の大腿部に擦り付けていた股間を、杞梨は尻を浮かせて見せつけた。

 「いいともさ」

  すぐにタイトスカートの裾から手をもぐり込ませる。

  滑稽な歓喜の喘ぎが漏れると、すぐに濡れた布地の音さえ聞こえてきた。

  やがてショーツの脇から膣に差し込まれた指が蠢くころ、杞梨は腰を痙攣させ

 ながら達しようとしていた。

 「いく! いく! 殺して、いくとき、殺して! いく! いくっ!」

  白目を剥き、泡を吹きながら、彼女は自らの心の底に潜んでいた自殺願望を吐

 露しつつ、大量の愛液を射出して果てた。

  勢いに押し出された指を抜き取り、ハイドは股間のジッパーを下ろして馬鹿馬

 鹿しく巨大な性器を取り出した。

  ぐったりと、息をしているのかさえ判別出来ない女のスカートとショーツを下

 ろすと、開かれた脚の間に向けて躊躇なく腰を送り出す。

 「ぶっ!?」

  口内に残っていた泡を噴出させると、杞梨の背中が仰け反った。内蔵が口から

 逆流するのではと、恐怖さえ覚えた。

  すぐに下から尻を突き上げて応戦を開始した。胎内に収まった膣の軋むような

 肉の感触は、腰に溢れ、脊髄を掻きむしって這い回る、数千匹の蟲のもたらす快

 感に変わっていた。

  それから三度、杞梨は果てた。漸くハイドが放とうとしたときには、彼女の意

 識は失せ、投げ出された四肢は出来の悪い玩具の人形のように跳ねるのみだった。

 「おお──」

  低く呻いたハイドは、とっさに女体を抱き上げ、己と部屋の入口の間に翳した。

  それより早いか遅いか。銃声が乾いた音圧で室内の空気を圧縮したのは、そん

 なタイミングだった。

  杞梨の肩が弾けた。熱っせられた弾丸に血液が蒸発したような、薄い煙が広が

 った。

 「がうっ──」

  痛みに戻ってきた杞梨の意識は、すぐにその痛みによって失われた。

  入口に、硝煙の漂う銃を構えた黒ずくめの女がいた。

 「ちくしょう」

  あまり悔しくもなさそうに呟いたハイドは、自らが楯にした女体の陰で、膣よ

 り抜け落ちた陰茎から、大量の精液を断続的に放っている最中だった。呟きが狙

 われたことに対する怨みなのか、それとも女の胎内に放てなかったことに対する

 それなのかは解らない。

  同僚の肩を撃ち抜くという形で初弾を外した女は、すぐに別の目標に銃口を向

 けた。しかしそれが彼女の意思かどうかは怪しい。虚ろな顔に精神活動の兆候は

 見られず、その意識が暗黒に閉ざされていることは明白だった。杞梨を行動不能

 に陥れたガスは、それよりも早く、実はもうひと筋、室外に待機していた彼女の

 元にも届いていたのである。

 「よせ」

  淡としたハイドの声に、銃声が重なった。

  弾丸が貫いたのは、部屋の片隅に置かれていた黒色のボンベだった。

  解体作業に使われているガス溶断用の酸素ボンベは、不当な外力と熱に不満の

 叫びを上げ、内包していた力を炎と爆圧によって開放し、そのフロアを完全に吹

 き飛ばした。

 

 

 

  構内にひとはいないと聞かされていた消防士は、半壊した建物を見上げて額の

 汗を拭った。爆発事故らしい火災は、元が取り壊し中のビルだっただけに、大し

 た苦労もなく鎮火を迎えた。駆けつけた現場責任者によれば、作業員全員の無事

 も確認されたという。

 「やれやれ、人騒がせな……」

  道路に面しておらず、こちらは野次馬の姿もないビルの裏手に回り、残り火の

 有無を確認しながらひとりごちていると、

 「まったくだ」

  と言う声が横合いからやってきた。

  ぎょっとして振り向いた消防士は、息を飲んで固まった。

  がらがらと瓦礫を跳ねのけて現れた男の服は、至るところに焼け焦げた跡があ

 った。うっすらと立ち昇る煙には、革のやける嫌な匂いが染みついている。

 「あちち……火ってのは厄介な代物だよな……」

  平然と尻を叩く男は、しかも下半身剥き出しの女をひとり抱えている。どうや

 ら意識を失っているらしいが、こちらには殆ど炎の蹂躪の跡は見られない。

 「あ、あんた──大丈夫なのか?」

  ようようと息をついた消防士は、ぞっとして問い掛けた。なにせ男の顔半分は

 酷く焼けただれて、見るも無残な様相を呈しているのだ。そのせいですぐには判

 別出来なかったが、どうやら男は白人らしい。

 「そうらしい」

 「あんた、気づいてないかもしれないが、酷い火傷を負ってるんだぞ?」

 「唾でもつけときゃ治るよ」

  男は言って、待機している救急車の元へと焦る消防士に、抱えていた女を手渡

 した。

 「彼女、肩を怪我してる。よろしく頼むよ」

 「お、おい……」

 「じゃあな」

  ようやく辺りを包み始めた宵闇の中に去り行く男を、何故か消防士は止められ

 なかった。

 

 

 

                 第二章

 

  1.

 

  桜の元に知世からの連絡があったのは、ハイドとの邂逅から一日を経過した昼

 下がりであった。逢いたいという申し出に、桜は喜々として頷いたのである。音

 信不通となっていた親友に、訪ねたいことも山ほどあった。

  受話器を置くなり出向いた大道寺家は、ひっそりと佇んでいた。広大な敷地面

 積に建つ、近代的ではあるが巨大な洋風邸宅が日本に存在するためには、周囲と

 の調和を取りなすそんな空気が必要不可欠なのだろう。

  巨大な門扉に取り付けられたインターフォンは、今度は温かく迎えてくれた。

  自動的に開いた門を抜け、手入れの行き届いた庭園を少し歩くと、ポーチの下

 に、既に待ちわびていたらしい知世の姿があった。

  ふたりは互いの名を呼びあい、子供らしい純真さで抱擁を交わした。溶け合っ

 たふたりの少女は、よく似ていた。姿形がではなく、雰囲気が。そんな印象をふ

 たりを知る者に話したところで、まさか、と苦笑を浮かべられるかもしれないが、

 ふたりの母親が従姉妹同士であるのだという真実を付加させれば、ああ、それな

 らばと納得するだろう。ふたりが互いの出生を知らぬままに無二の親友となった

 理由は、案外そんなところにあるのかもしれない。

  分厚い一枚板で造られたドアを抜けて屋敷に入ると、知世は控えていたメイド

 にお茶を二組運んで欲しいと丁寧に述べ、桜を伴って早々と自室へと脚を向けた。

 「知世ちゃん」

  部屋のソファに落ちつくなり、桜が口火を切った。

 「ここ何日か、どうしてたの?」

 「ええ……」

  既にその質問があることは予測していたのだろう、しかし控えめに知世は応え

 る。

 「実は、ちょっとした事故がありまして。──いえ、本当に大した事故じゃなか

 ったんです。心配なさらないで下さい」

 「でも、事故って?」

 「はい。桜ちゃんをお見舞いした帰りに、自動車事故が。それで、大事を取って」

 「怪我、したの?」

 「いいえ、ご覧の通りですわ」

  にこにこと微笑む知世に桜は胸をなで下ろし、話の続きを促した。

 「警備の方が、その事故が私を狙ったものかどうかはっきりするまでは、慎重に

 なったほうがいいと。だから外出も電話も出来ませんでしたし、誰も敷地内には

 入れなかったんです。──さくらちゃんが一度お見えになったと聞きました。本

 当に申し訳ありませんでした」

 「ううん、いいの。気にしないで。でも、わたしがここに来れたってことは、そ

 の事故が偶然だったって解ったんでしょう?」

 「いえ、それが……」

  知世の視線が落ちた。頭の中にある言葉を口にしてもいいものかどうか、それ

 を思案しているようにも見えた。

  桜はそこになにか澹いものを感じたが、それでも黙って待ち続けた。

  やがて知世は言った。

 「詳しいことはまるで解らないのですが、どうやらその事故に、なにかあるよう

 なんです。警備の方はぴりぴりしているし、噂ではその時に怪我をされた方もい

 るとか。それなのに、今日になって急に自由にしていいと言われました。私見で

 すが、まだ皆さんの緊張は取れていないようです。いいえ、どちらかといえば戸

 惑っているようでもありました」

 「戸惑っている……?」

 「命令に振り回されている感じです」

 「命令って、誰が?」

 「警備の方々のお仕事については、私もよく知らないんです。ただ、いつもいる

 方の姿が、何人か見受けられません」

  ノックの音が響いた。

  知世の返答に入室したメイドが、氷の浮いたアイスティをテーブルに置いて退

 室していった。

  しばらく無言の刻が続いたが、グラスの氷が小さく鳴ると、知世の口が動いた。

 「さくらちゃん、知っていますよね、列車事故があったことを」

 「うん」

  頷いた。ここ数日報道され続けている大惨事だ。尤もその手の話題には事欠か

 ない日々ではあるが。昨日は近くのビルで爆発事故があったらしい。

  知世は、桜の顔に陰が落ちたことに気づかなかった。

 「私が自動車事故に遇ったのは、その場所なんです。しかも直前に」

 「………」

 「最近、あちこちで起こっている事故は、私が思うにあの日から──さくらちゃ

 んが入院された日に端を発しているとしか……。もしもさくらちゃんが入院した

 ことが一連の事件と関連しているなら、ひょっとして私の事故もなにか関係ある

 んじゃないかと……」

  知世の視線は桜を捉えていなかった。病室で見せた激しい拒絶反応は、未だ知

 世の脳裏から離れてはいない。好奇心というにはあまりに罪悪感を伴った私見を

 述べている自分の言葉を、どうか責めていると受け取られませんようにと、彼女

 は一心に祈っていた。

  澄んだ音に顔を上げると、ストローも使わずに桜がグラスを傾けていた。

 「おいしい」

  大きく息をついて漏れた言葉は明るかった。

 「あのね、知世ちゃん。実はわたしもそう思ってるの。ううん、わたしじゃなく

 て、なにかクロウカードと関係してるんじゃないかって」

 「そうなんですか?」

 「昨日ね──」

  桜はそれから、クロウカードの暴走、それから突如として現れたハイドという

 男のことを話して聞かせた。どうやらその男が重要な事実を知っているらしいこ

 と。そして時間を遡上り、あの夜に体験したことを。

  聞き終えるころ、知世の顔には隠しきれない不安が棲みついていた。

 「そんなことが……」

 「うん。だからわたしね、キャプターをやめようと思って。もうケロちゃんには

 それとなく話してあるの」

  明るく言われただけに、知世は返答に窮した。無理をしている──とも思えな

 いだけに、尚更である。あんな話を聞かされた後では、それに輪をかけて、だ。

  正直なところ、知世は杞梨が看破したように、非日常的な現象に胸を踊らせて

 いた。確かに危険な目にも遇ったが、命の危機を意識したことはなかった。

  しかし目の前で微笑む少女は、還るべき日常を絶えず意識しつつ己が堪能して

 いた時間の中で、想像もつかないような恐怖に見舞われたのだ。どうしてそれを

 止めることが出来よう。いや──そんなことが起こり得るのだと考えもしなかっ

 た自分は、なんと浅はかで愚かだったのだろうか。

 「ごめんなさい……」

 「え?」

 「さくらちゃんがそんな危険なことに関わっているなんて、一度も考えたことは

 ありませんでした……。私、ただそれが楽しくて……けしかけるような真似まで

 していて……」

 「や、やだな、そんなこと。わたしだって、結構楽しんでたよ?」

 「でも……」

  ぽつりと涙が落ちた。

  ぎょっとして、桜は身を乗り出した。

 「そ、それにね、わたしもう全然平気だから。本当だよ?」

  嘘ではなかった。恐怖は、ある。だがそれは、既に背後に置いてきた恐怖だっ

 た。しかもその間に、ハイドの姿がある。理由は定かではなかったが、彼女は自

 分の背負っていた重荷を、彼が肩代わりしてくれたのではないかと感じていた。

  突如として人声が響いたのはその時だった。

  聞き覚えのある──或いは違和感のある──声に、ふたりの少女は跳ね上がっ

 た頭を同じ方向に巡らせた。

  洋室の片面に、アコーディオンカーテンで仕切られた一角があった。やけに大

 きな声はそこから漏れ出してくる。

 「ビデオが?」

  知世が慌てて立ち上がり、桜もその後を追った。

  仕切りが開かれると、果してそこには声の主、桜の姿があった。四角く切り取

 られた世界は夜の闇に包まれている。大型のプロジェクタースクリーンに映し出

 されているのは、いままさにクロウカードを狩ろうとしている桜であった。

 「どうして……」

  知世が解せないといった表情で言った。

  桜が偶然手にした封印の書。その表紙に記されていた言葉を、なんの気もなし

 に口にした日。常人には意味のない言葉は、しかし桜に備わっていた魔力に輝き、

 内包していたクロウカードを解放するに至った。目覚めた封印の獣により、彼女

 がカードを封印する為のキャプターとなったまさにその日、偶然それを目撃した

 知世もまた、同じ世界に身を置いたのだ。

  それ以来撮り溜められた映像記録は、知世が傾倒する趣味の賜物である。こと

 あるごとに行動を共にし、持ち歩いていたハンディカムの戦果だ。それらは一律

 この場所、知世の自室にあって最もプライベートな映写室に保管されていた。

  知世の目は、映し出されている映像が最新のものであることを瞬時に見分けて

 いた。恐らくそれが最後の作品となるであろう、あの晩の日付が画面の片隅に記

 されている。

  機械の誤作動であろうか。

  しかし──。

 「おかしいですわ。あのテープは映写機にセットしていないはずなのに」

  隣に呟いて、彼女は凍った。

  桜の顔は色を失っていた。いや、表情そのものが失せているといったほうがい

 いかもしれない。呆然と──まさに呆然と画面に見入っている。

 「さくらちゃん?」

  不安気な問い掛けは、桜の耳には届かなかった。

  彼女は、知世には見えないものを見ていた。記憶の中にすらそれはなかったは

 ずだった。

  あれは一体なんという名のカードだっただろうか。十数日前に狩ったばかりの

 カードの名は、しかし浮かんでこなかった。対峙した過去の自分とカードの傍ら

 にぼんやりと浮かぶ陰に、或いは邪魔をされているのかもしれなかった。

  それは、見覚えがあった。その時にではない。その後に眼にした<それ>に酷

 似しているのだ。ただ、画面内から吹きつける虚無感は、<それ>に比べると随

 分と弱いように感じられた。が、それがなんの慰めになろうか。

  漂う陰は、桜に対して縦横の抵抗を示すカードに、恨めしげな視線を送ってい

 るように感じられた。求めていたものを間近に見て、しかしそうではなかったの

 だと語っているようだった。

  すう、と動いた陰が画面内の自分に近づくのを見て、桜は今更の恐怖を感じた

 が、しかし悔しげな身悶えを示した陰に眉を顰めた。陰が電子界の中に封じられ

 た自分に触れようかという瞬間に、不可視の力に押し戻されたように見えたのだ。

  不満を示すように蠢いた陰が次に向かったのは、こちらの方向だった。それは

 つまり、画面の奥から手前に移動したということであり、そこにいたのは──カ

 メラを構えていた知世であった。

  画面を覆い尽くした陰が消えた。と、思う間もなく、プロジェクターが投げか

 けていた三色の光をシャット・アウトすると、暗室に照り返していた一切の映像

 が途絶え、大型のスピーカーも沈黙を良しとした。

 「知世ちゃ──」

  数秒後、我に返った桜は慌てて現実の知世に顔を向け、言葉を失って床に膝を

 ついた。すさまじい気配は、瞬間、確かに桜の脈拍を停滞させていた。

 「さくらちゃ──」

  反射的に言いかけて、知世の声も失われた。癇癪を起こしたような音が、背後

 から襲ってきたからだ。

  振り向いた先で、また破壊音が響いた。テーブルの上で、先に結果を迎えてい

 た仲間の後を追って、残ったグラスが砕け散ったのだ。

 「な、なんですの?」

 「知世ちゃん、逃げて!」

  我が身を抱いて見上げる桜に、知世は躊躇を見せた。何事かが起こっているの

 は理解出来た。これまで何度も眼にしてきたから。しかし桜のこれほどの狼狽振

 りは記憶になかった。それだけに事態が切迫しているのは明らかだったが、苦し

 む友を見捨ててはおけない。

  その間に、テーブルの上では異変が生じていた。砕けたグラスに内包されてい

 たアイスティは、そのまま重力に引かれてわだかまるはずだったが、液体はそれ

 を認めようとしていなかったのである。

  蛇のように、ぐい、と鎌首をもたげた液体の中には、浮いていたはずの氷まで

 が包まれていた。

  きらめくと、水蛇は一閃の鞭となって疾った。

 「きゃ──」

  脚を引かれて転倒した知世と、その余勢をかって身体を跳ね上がらせた桜の間

 隙を、目標を見失った紅い液体が擦過していく。ふたりの鼻孔にアールグレイが

 香った。

 「あれは、ウォーティ……」

  かつて眼にしたことのある、水の属性を持つカードの名を知世は口にした。

 「ちがうよ。あれはクロウカードじゃない」

  低く言いながら、桜は知世を立ち上がらせた。中空に漂い、いまは球形となっ

 てとぐろを巻く水蛇からは、痺れるような威圧感が放射されている。逃げなけれ

 ばならないとわめきたてる本能が、少女の身体を突き動かしていた。

 「外へ」

  ドア向かってふたりが走ると、水蛇はざわりと蠢いて数十本の糸となった。そ

 れぞれの太さは一ミリに満たないだろう。内部に存在していられなくなった氷は、

 しかし砕けることはなく、微細な結晶のように切断されて破棄された。水の糸は、

 恐るべき切れ味を有しているのだ。

  背後から、投網をかけるが如くふたりを覆った水蛇は、しかし獲物を切り裂き

 はしなかった。

 「あうっ──」

  全身を苛む冷気にふたりは震えた。

  舐めるようにふたりの身体を這った水蛇は、行く手を阻むように集結して、再

 び球形となっていた。逃げ道はないぞと脅しているようにも見える。

  と、ふいにその内部で、複数の銀色の粒が対流を始めた。ほどなく耳に届いた

 馴染みのある音に、桜はそれが沸騰を始めたことを知った。

  水蒸気爆発は、突如として発生した。

  瞬く間に液体の姿を芳しい水蒸気へと変貌させた水蛇は、高熱の霧となり、た

 かだかグラス二杯分の量にして、しかし室内に隈なく拡散した。一気に加熱され

 た空気は、恐らく摂氏百度に近くなっているはずだ。

  悲鳴をあげる知世の腕を引いて、桜は走った。退路を阻んでいた水蛇は、いま

 や霧という半実体と化している。強行突破には違いないが、やってやれないこと

 はないかもしれない。どちらにしても、このまま留まっていたら蒸し焼きだ。

  喉の粘膜が灼けつく。肺が押し広げられたように苦しい。

  限界かと思われたころ、白く霞んだ視界にドアが入った。

  蹴破るように廊下に飛び出ると、湿った身体に乾いた空気が染み渡った。

  享受している暇はない。

  忍び寄るように、しかし恐ろしい速さで追ってきた霧に、ふたりは廊下を走っ

 た。

 「だめ、逃げて!」

  叫んだ桜に、丁度廊下をやって来たメイドは立ち竦んだ。必死の形相で走って

 くるのは、仕えた家の令嬢と、その友人の少女である。その背後に霞むのは──

 なんであろうか?

  走り抜けながら袖口を引いた桜の腕を、しかしメイドは反射的に振りほどいて

 しまった。

 「お嬢様──ああっ!?」

  直後、むっとした気配を感じた彼女は、寸刻遅れて悲鳴を上げた。

 「ああ──」

  振り返り悲痛な声を漏らした桜は、熱気にのたうちまわるメイドの姿を霧の中

 に見失い、それでも脚を止められなかった。すがりつくような知世の存在もある。

  知世の自室は二階に位置している。一階に辿り着き、屋敷外へと抜ける為の階

 段を降り始めると、悲鳴を聞きつけたのか、数人のメイドが血相を変えて駆け昇

 ってくるのが眼に入った。

  桜は泣かんばかりだった。

 「来ちゃ、だめ!」

 「逃げて下さい!」

  知世も叫んだが、ふたりの少女の態度は彼女らを困惑させた。

  丁度踊り場で立ち止まったメイドに、桜は覚悟を決めた。

 「先に逃げて」

  知世に告げると、くるりと踵を返し、迫り来る霧と対峙する。

 「さくらちゃん……」

 「はやく。わたしがくいとめているうちに」

 「でも──」

 「お願いだから!」

  抗い難い後ろ姿に、弾かれるように知世は動いた。得体の知れない霧に怯えた

 メイドも反射的に追随しようとしたが、しかしそれよりも早く霧の一部が実体を

 伴ってのたうった。

  ぴゅん、と耳元をかすめる歪んだ音に桜が振り向く前に、駆け出そうとしてい

 たメイドのうちひとりの頸を、霧から延びた水の糸が薙いでいた。

  被害者は、妙な位置から世界が回るのを見た。跳ね上げられ、回転し、踊り場

 に落下した生首は、悪趣味な偶然の意思により、見事に切断面を床につけて着地

 を果たしていた。床から生えているとしか思えないほどの安定を保ち、それ故に

 切り口の鮮やかさが窺い知れる。

  ぽかんとしたメイドの瞳が、ちらと上方に向けられた。そこには先程までは確

 かにそうだった自分の身体が、直前の指令を果たそうと走り出していた。細く白

 い頸から、天井にまで達するような血飛沫が吹き上がっている。

  早くも赤味の抜け始めたメイドの唇が、待って、と動いたが、主人の命を聞き

 分ける耳を失っている身体はそのまま脚を踏み外し、真紅の布を纏って踊るダン

 サーのように、階下に向けて転がり落ちていった。

  見届けたメイドは痛ましい己の姿に涙を流し、諦めたように瞼を閉じて絶命し

 た。

  音のない衝撃が、その場の人々の脳を麻痺させた。生き残っている幸運は、死

 を覚悟する時間として与えられたのではないだろうか。

  その中にあってただひとり、桜だけが歯を食いしばって霧に立ち向かった。無

 謀だと、彼女自身思っていた。勝てやしないという恐怖は、そうなれば死ぬしか

 ないのだという現実に裏打ちされ、それ故に彼女に戦えと叫んでいた。

  霧は濃度を増して停滞していた。飛散した血潮を糧として、赤黒く霞んでいる。

  桜は素早く首に掛けていた紐を引き出し、そこに下げられている小さな封印の

 鍵を手に取った。定められた詠唱を与えると、鍵は秘めていた力を解放し、カー

 ドを操る封印の杖へと大きさと形を変えた。

  右手がショートパンツのポケットへと延びる。

  取り出されたのはクロウカードだった。

  霧が蠢いた。

 

 

 

  2.

 

  カードを放とうとしたそのとき、

 「はやまるな」

  と言う声が流れた。

  桜どころか、半ば自我を失っていた者までがそちらに意識を奪われたのは、声

 に含まれる落ちつきに助けを求めたからかもしれない。説教を施す聖職者のそれ

 にも似ている。

 「挑発にのるなよ、嬢ちゃん。そいつはな、カードを使わせようとしてるんだ」

  しかし、一同は階段を昇ってくる男に息を飲み、これならば得体の知れない霧

 のほうがまだましだと言わんばかりに眼を背けたのである。

 「行きな」

  とハイドは顎をしゃくった。

  顔半分、生々しいケロイド状の醜い傷痕に覆われた男の言葉に、メイド連は声

 もなく階下へ向けて走り出した。なまじ整った顔だちをしているだけに、それが

 崩れたときの不快感は強い。床にへたり込んだ知世に眼もくれなかったことを不

 義というのは、彼女らには酷だろう。

 「どこに隠れてたんだ、おまえ」

  と親しげにハイドは言った。

  質問が向けられたのは霧である。

  反応はないと思われたが、しかし、あった。

  霧の中に、ぼんやりとした陰が浮かび上がっていた。冥界へと続く霧より出る

 死者の姿とは、それを眼にした者の言葉なのかもしれない。

  陰は、光ともいえない色合いを次々に変化させ、目まぐるしく明滅を繰り返し

 た。窮地に追い込まれた海賊が、その体色を激しく変化させ、敵を威嚇するさま

 によく似ている。だとするとこれは、脅えなのか。暗夜に消えた何物かと同じよ

 うな。

  ハイドの気の抜けたような気配と、必死に抗う陰の気配が一瞬の均衡を見せた

 が、それはすぐにバランスを失った。

  陰が再び霧の中へと消え去ろうとすると、

 「そう無下にするなよ」

  ハイドの左腕が上がった。

  親指と中指が押しつけられ、滑る。

  鮮烈なフィンガースナップと共に、いつからあったのか、恐らく誰にも応えら

 れまいが、そこに黒いカードが忽然と現れていた。

  カードは、ただ黒かった。大きさはクロウカードとほぼ同じ、タロットカード

 程度だが、はっきりとは判し難い。四辺の輪郭は確かに長方形を保っているはず

 だが、眼で捉えようとすると、それは背景と混じり合って線を乱すのだ。そうな

 ると黒いと見える表面も──いや、それすら奥行きがあるのかもしれないが、虹

 色に輝いているようにも見えた。この際、肉眼の認識力は地に墜ちたと見るべき

 だろう。

  自分が虚空に放り込まれたのではと、桜が一瞬の恐怖を覚えるのと同時に、そ

 よとも空気を乱さずに、霧がカードに吸い寄せられた。

  捩じれながら、陰が悶えた。

  千切れ飛ぶ霧の一部が水蛇へと変じ、自棄気味な荒々しさをもってハイドに飛

 んだが、それは平然と立つ男に触れないうちに、ただの液体となって弾けて消え

 た。唯一の成果はその顔を僅かに濡らしたことだろうか。

 「きゃあっ!?」

  桜が悲鳴をあげたのは、じりじりと引き寄せられる陰が、触手状の腕らしき部

 分を延ばし、自らを支えようというのか、彼女の脚に絡みつこうとしたからだ。

  が、陰はそれを果たせなかった。

  ハイドに砕かれた水蛇と同じく、触手は桜の脚に触れる前に、焼き尽くされる

 ように破片となって霧散したのである。

  それを契機に、陰は力を失ったようだった。加速度的にカードに吸い寄せられ、

 呆気なくすべてを飲み込まれて存在しなくなった。──まさしく影も形も残さず

 に。

  ハイドが、ふむ、と頷き手を振ると、カードはそれ自体の内側へと縮むように

 して消えた。

 「これでふたつ片づいた」

  やれやれ、と腰を叩き、桜に向き直る。

 「大丈夫か?」

 「──ハイド、さん?」

  男の顔に怯み、しかし平然としているその姿に彼女はなんとか平静を保った。

  そんな少女の努力を省みずもせず、

 「カードを持ち歩いているのか? よせっていっといただろう」

  ハイドはそのままの雰囲気を変えずに、しかし口を尖らせた。

  桜は上擦った思考を落ちつけながら、封印の杖を縮小させて懐に収めた。

  なぜカードを持ち歩くのか。

  それは彼女自身が散々繰り返し自問を続けた言葉だった。クロウカードとは縁

 を切る。そう思いながら、しかしカードを携えていたのは、不安に負けたからだ。

 異変に見舞われたその時、凶兆となった品物に頼らざるをえない矛盾は、頭の片

 隅にあったハイドの姿が消していた。あのひとがいるならば──と、根拠なく。

 「でも、なぜそうしちゃいけないのか、聞いてません」

 「大人の言うことは聞いておくもんだ」

  ハイドは数歩脚を運び、見上げる知世に手を延ばした。

 「ひ──」

  引きつった声を漏らし、知世はじりっと退いた。

  ハイドは、はて、と頸を捻り、思い出したように笑った。

 「ああ、わるかった。ちょいとばかり火傷しててね」

  と頬を撫でる。

  代わりに桜が知世を抱き起こし、大丈夫だよと安心させてから、

 「ふたつ片づいた、って言いましたよね?」

  とハイドに問い掛けた。

 「ああ」

 「いまの、やっぱりこのまえのと同じなんですか?」

 「同じだ。ただし、いまのほうがずっと弱い」

 「そうです……か?」

  ハイドは頷いた。

 「嬢ちゃんも感じただろう、やつが殺気をばらまいてたの」

 「はい」

 「弱い犬ほどよく吠える」

  今度は桜が頷いた。最初にそう感じたのも確かだった。

  その間にハイドはぶつぶつとやり始めていた。

 「それなのに感知出来なかった。どこに潜んでいたものやら……」

 「それなら──」

  桜は彼に、事の次第を話して聞かせた。

  男は聞き終わると、

 「なるほど。やつめ、カメラに忍び込んでやがったのか。フィルムに焼き付けて

 あったんじゃ、気配を感じなかったわけだよな」

  そんなことを言った。桜はその言葉を素直に受け止めたが、隣の知世は違和感

 を覚えていた。今時フィルムを使用するビデオカメラなど、骨董品を通り越して

 貴重品である。

  友人のそんな疑問には気づかず、

 「でも、どうして急に出てきたんでしょうか?」

  と桜は訪ねた。

 「嬢ちゃんがいたからさ」

 「……どうしてですか?」

 「それはな……」

  言いかけて、ハイドは顎に掌をあてがった。

  返ってきたのは、

 「秘密」

  のひとことだった。

  桜はにやつく男の顔をじっと見つめてから、

 「納得できません」

  と強く言った。

 「わけもわからないまま襲われて──カードを使うなってどういうことですか?」

  当然の意見だった。

 「尤もだ」

  ハイドも肯定したが、それを気にしているのかいないのか、よいせとばかりに

 階段に腰掛けると、取り出した煙草に火を点けた。

  紫煙が漂うと、

 「だが、秘密は秘密だ。おれに言えるのは、カードを使うなってことだけさ。カ

 ードを使わなければ嬢ちゃんに危険はない」

 「それで納得しろと言うんですか?」

 「そうだ」

  男は頷き、ちらと振り向いた。

  桜は明らかな不満を表情で示したが、効果はなかった。

  仕方なく、

 「あれは──」

  何物なのかと問おうとしたが、制するように、しかし有り難いことには、

 「魔力だよ。本来の力は失いかけているが、それでも厄介な魔力」

  とハイドは顎を撫でつつ応えてくれた。

  不精髭がちりちりと鳴る中、桜は疑念に眉を潜めた。あの「物体」が魔力だと

 して、それを封じたハイドの手に在ったものは──カードだった。

 「クロウカードと同じような──?」

  半ば己に問い掛けたような言葉に、応えはあった。

 「それよりも強力な」

 「そんなものが……」

 「あるから厄介なんだよな」

  こればかりは──珍しく──心底から言っているように、ハイドは顔をしかめ

 てぼやいた。

  桜は更に質問をぶつけようとして、ハイドの背中に眼を当てた。

  拒絶は、はっきりとしない形で示されていた。

  結局彼女は妥協した。

 「ひとつだけ教えてください」

  ハイドは無言で頷いた。言ってみろということらしい。

 「ハイドさんの正体です。ハイドさんは、その、あれのキャプターなんですか?」

  ぴしりと音が鳴った。指を焦がしそうなほどにまで喫った煙草を、喫煙者が投

 げ捨てたのだ。

 「まあ、ね」

  彼は言った。

 「当たらずといえども遠からず、ってところだ」

 「どっちなんですか?」

 「秘密だ」

  にやにやと言う。ひとをいらつかせることに歓びを見い出しているのかもしれ

 ない。たちの悪い男だと、十人が十人とも口をへの字にするだろう。

  彼の言葉は真実なのだろうか。桜は聞きながら吟味していた。確かに辻褄はあ

 っているような気がする。それに、他に知りうる情報がない以上、ハイドの言葉

 に納得しておかなければ、どうにも気持ちのわだかまりをすっきりとはさせられ

 ない。自分の知らないところで物事が起こる分には、いい。別にそれは構わない。

 ただ、それに巻き込まれ、翻弄されるのは我慢ならない。

  結局、彼女はかみ砕いたそれを嚥下して収めた。

  胃の腑がそれを激しく拒否した。

 「どうしてちゃんと教えてくれないんですか?」

  ふいに沸き上がった怒りに、少女は憤然と瞳を輝かせた。

  対するハイドはこともなげに、

 「そのへんはクロウカードと同じさ。嬢ちゃんだって関係ない人間に話したりし

 ないだろう?」

  とやり返した。

 「でも、わたしはそれに関わったんですよ?」

 「誰であろうと、だ。そもそもクロウカードにして、存在を知る者は一握りだけ

 だった。その誰もがエリート意識を持ってことに当たり、下々の連中になど教え

 てやるもんかと胸の中に収めて死んでいったのさ。それなのにどうして伝説は生

 き残ると思う?」

 「わたし、エリート意識なんてもってません!」

  激しい反論に、ハイドは頭を振った。

 「それは尚悪い。エリート意識のないやつは、誰にでも平等だ。秘密を握るには

 相応しくない。杞憂はその芽を摘み取るより、始めから種を蒔かないほうが楽だ」

  桜は喉の奥で唸り、悔しげに旗を降ろした。どうやら目の前の男が相当な理屈

 屋らしいと悟り、口論に勝ち目なしと認めたのだ。

  ハイドは勝利に気をよくしたのか、

 「まあ、あと少しの辛抱だ。最後のひとつはちょっとばかり手ごわいが、なんと

 かするからさ」

  と指を立てながら言った。

  桜ははたと男の顔に視線を合わせた。

 「あとひとつだけで終わりなんですか?」

  希望が膨らんだ。──或いは絶望かもしれない。

 「とりあえずはな。幸いなことに連中は三体だけしか活動していない。──ふむ、

 逆に考えるとこの近辺に三体も集まっていたことを不幸というべきか」

  桜はどちらかといえば、後者の意見に賛成だった。

  彼女は言った。

 「わたしは、どうしたら?」

 「おとなしくしててくれ。さっきも言ったが、カードを使いさえしなければ、危

 険はないよ」

 「ほんとうに大丈夫なんですか?」

 「なんだい、信じられないか?」

 「あなたのなにを信じればいいの?」

  と桜は言った。──但し胸の内でだ。身勝手極まりない男に対するささやかな

 抵抗だった。

  そう口にするかわりに、

 「知世ちゃんの乗った車が、事故にあったんです」

  と黙りこくっている少女に眼をやった。

  知世は悲しそうな顔で頷いた。

  ハイドは値踏みするように髪の長い少女を見つめ、

 「事故ってのは?」

  と桜が口にしたのと同じ質問を繰り出した。

  桜は聞いたばかりの知世の災難を、嫌疑と共にハイドに伝えた。カードを使わ

 なければ害はないと言うものの、ではカードを持たない人々が世の中で見舞われ

 ている災難をどう説明するのか。つい今し方でさえ、自分たちも散々な目に遇っ

 た。誓ってもいいが、その間カードの力は解放していない。

  ハイドは神妙な面持ちとも、上の空とも思える態度で説明を受けていたが、す

 べてを聞き終えると、

 「そいつは不幸な偶然だ」

  と即座に断定を下した。

  到底納得出来なかった。

 「そんな──」

  言いかけたが、それは遮られた。

 「ボディガードに怪我人が出たと言ったな。そいつは死人の間違いじゃないか?」

  と、彼は知世に問うたのだ。

  少女は震えの残る──まだショックから完全に立ち直ってはいないのだ──声

 で応えた。

 「いいえ……でも、詳しくは知らないんです……」

  ハイドはふむと頷くと、

 「そのボディガードってのは、全身黒ずくめの綺麗な姉ちゃんかい?」

  と続けて問い掛けた。

 「はい……いえ、それが貴方のおっしゃろうとしている方かどうかは解りません

 が、確かに私のボディガードの方々は、サングラスに黒いスーツを着用した女性

 です」

  知世は男の真意が掴めずに、探るように応えた。

  ハイドはがりがりと頭を掻き、はずみで額にまで爪を立てた。舌を鳴らして顔

 を歪め、火傷の跡をなでつける。

 「偶然か。厄介なのか、幸運なのか」

  などとあらぬ方角に呟いた。

 「あの、それがなにか?」

  戸惑った知世がおずおずと言うと、彼は向き直り、

 「いやな、おかげでおれはえらい目に遇ってさ」

  と、爪に挟まった己の皮膚の一部を弾き飛ばした。

  ふたりの少女は互いに顔を見合わせた。どうにも掴み所がない男の態度に翻弄

 されっぱなしだった。それでも心底からの怒りを感じないのだから救われない。

  ひょい、とハイドが立ち上がった。そのまま何気ない足取りで歩くと、ふたり

 の少女の背後に立ち、ぽんとそれぞれの肩に掌を置いたのだ。

 「よう、また逢ったな」

  なんのつもりだろうと見上げた男が言うのを聞いて、桜と知世はその先、階下

 へと眼を向けた。

  そこには誰もいなかったが、そう思えたのは、まさにぎりぎりそう思えただけ

 の時間しかなかったのである。音もなく、慌てた素振りもなく、しかしそれも魔

 法ではないかと思われる素早さで、三人のボディガードが壁の陰から現れたのだ。

 「昨日の今日で、えらく仕事熱心だな。最近は不況とやらで、首をつろうと思っ

 てもその前に切られちまうらしいが、あんたもその口かい?」

  三人からの返答はなかったが、ハイドの言葉は中央に立つ女に向けられていた

 はずだ。昨日、ハイド諸共ビルひとつを吹き飛ばした張本人である。怪我ひとつ

 負っていないことに、ハイドは気づいているだろうか。

  知世も桜も、自分が楯にされているとは気づいていなかった。そうするにはタ

 イミングが早すぎたからだ。が、ボディガードの手に握られた拳銃の存在には気

 づいていた。ぴたりとこちらに向けられた銃口が寒々しい。

 

 

 

  3.

 

 「動くな」

  とひとりが言った。

 「動いてないよ」

  とはハイドの言葉だ。

  侮蔑に眉ひとつ動かさず、しかしボディガードはトリガーに掛けた指も動かせ

 なかった。錯乱気味のメイドの連絡通り、見上げる階段の途中には頭のない死体

 が転がっている。その上方には、これも連絡のあった不審者が一名。しかし発砲

 すれば、両者の間に位置する少女に危害が及ぶかもしれない。──殊にその内の

 ひとりに何事かが発生する事態は、絶対に避けなければならない。

 「話くらいは聞いてもらえるのかな?」

  ハイドが言うより早いか遅いか。

  銃声が響いた。

 「きゃ──」

  少女ふたりが同時に身を竦めたのは、既に弾丸が頭上を通過して、後方の窓硝

 子に風穴を開けた後だった。

  いつの間にやら身をかがめていたハイドが、己の身長の半分程度しかない楯の

 後ろから、ゆっくりと顔を出した。恥知らずな行為を、しかし恥とも思っていな

 いに違いない。

 「いい腕だ」

  確かに。銃弾はコンマ数秒前までハイドの眉間があった空間を、正確に通過し

 ていた。そう出来る女の実力。それをやり過ごせる男の驚異。

  熱を持った銃を手にしているのは、やはり中央の女だった。賛辞にぴくりとも

 しない。

  桜は本能的にこの場の危機を察し、なんとか身を隠そうと奮戦していたが、し

 かしただ肩に置かれたとしか思えないハイドの掌から、どうしても逃れることが

 出来なかった。

  同じ事実を確認していた知世が、

 「やめて下さい、この方は違います!」

  とボディガードに叫んだが、背後でハイドが無駄だよと言うのを聞いて、わけ

 も解らずに男の顔を見上げていた。

  そしてハイドの言葉は正しかった。

  銃声が響き、またしても弾丸は虚空を貫いて消えたのである。

  三人のボディガードの内ふたりは、無謀な発砲を行った同僚に驚愕の念を隠せ

 なかった。確かに彼女の射撃の腕は素晴らしかったが、だからといってこれほど

 危険な賭けに出るような人間ではなかったはずだ。──しかも、状況を把握する

 以前の発砲である。

  戸惑いは、推定といえども敵の前で見せるべきではなかった。右手に位置して

 いた女は、新たな発砲の兆しを見せ始めている同僚に、やめろと告げてその肘を

 捕縛した。訓練を受けた者にしか成し得ない行動は、他人には気づかれない程度

 の動きでしかなかった。

  制止に、女の見せた反応は恐ろしく無感情で、恐ろしく激情的であった。

  被害者は脳内を滑る熱い弾丸の感触を感じて、生体のダメージにそうされる前

 に、恐怖で自らの心拍を停止させて崩れ落ちた。

 「なにを──」

  目撃者が言い終わる前に、女は銃をそちらに向けていた。第二の被害者が心臓

 を撃ち抜かれたのは、まだ第一の被害者の身体が倒れきる前であった。

  同僚二名を撃ち殺した女は、平然と銃口をハイドに向け直した。

 「どうして……」

  知世がか細く言った。

  頭を吹き飛ばされた女はぴくりともしていないが、心臓を破壊された女の身体

 が、未練たらしく痙攣を繰り返している。周囲に血の香りが濃密に漂った。──

 いや、実はずっと変わらずにそれは漂っていたのだ。被害者は決して認めようと

 はしないだろうが、職に殉じた二名の他にも、契約書には記載されていないであ

 ろう死を迎えたメイドの死体が、厳としてその場にあるではないか。彼女の撒き

 散らした血の跡は、辺り一面にこびりついている。

  今更ながらその事実を思い返したふたりの少女は、揃って同じ場所に視線を送

 ってしまった。見てはいけないと心中で叫びながらだ。そこには物言わぬ生首が

 鎮座している。

 「撃つなよ。この娘に当たるかもしれないぞ」

  悲鳴が上がる前にハイドが言った。

  それは脅しだったのかもしれない。だが、どちらの娘を指したのか?

  女は素直だった。なんのためらいもみせずに、銃を放り投げたのだ。

  ハイドはよしよしと頷き、しかし桜に告げた。

 「絶対にカードを使うな」

  はっとした桜は女と男を見比べて言った。

 「じゃあ、あれは──」

 「最後の一体だ。憑かれている」

  その言葉を待っていたのか、無表情だった女の口許に笑みが浮かんだ。ひとが

 そのように冷たい笑みを漏らせるはずはなかった。

  ふいにその笑みが消えた。微かに残っていた人間らしい表情を道連れにして。

  なにかが──桜にはそうとしか表現出来なかった──薄汚れた澱のようにボデ

 ィガードの身体を離れる気配があり、周囲の景色を歪めて漂った。

  同時に、停止していた時間が動きだし、原因と結果は永劫の隔たりを保ったま

 ま、ついにひとつに繋がったのである。

  それがどのような種類にせよ、加護を失ったボディガードは、過去の爆発に吹

 き飛ばされて飛散した。それは、本来ならば昨日迎えたはずの彼女の死であった

 のだろう。四肢は本体からもぎ取られ、一瞬の内に肉は焦げつき、爆ぜ、内蔵と

 骨格を剥き出しにしながら、人体は微塵となって砕け散った。爆音も衝撃も炎も

 なく、それだけに生々しく。

  くるりと眼を反転させ、今度こそ知世は気を失った。

  ハイドは無頓着にその身体を投げ捨て、桜をぎょっとさせた。

 「逃げな」

  ぽん、と桜の背中を押す。

  桜は戸惑い、しかし言った。

 「知世ちゃんが……」

 「だったら連れていけばいい」

  言い放ち、階上へと顎をしゃくるハイドの、なんと薄情なことだろうか。

  だがそのことについて苦言を提している暇はなかった。桜は必死にぐったりと

 した友人を抱き上げると、半ば引きずりながら逃走を試みた。

  漂っている澱が、ざわりと収縮して、そして蠕動を繰り返したのはそのときだ。

  このとき、ハイドが小さく舌を鳴らしたのだが、それがこれから発生する現象

 を悟ってのことだとしたならば、彼がどのような行動も起こさなかったのも仕方

 があるまい。

  事実、なにをする暇もなかった。

  桜は向かおうとしていた階上に、陽炎が揺らめくのを見た。それは水面に石つ

 ぶてを投げ込んだが如く波紋を描き、背後の景色を歪ませ始めた。

  その一瞬後には、何事もなかったかのように平静を取り戻したのであるが──。

  桜は自分がなにを眼にしているのか、数秒間理解出来なかった。

  階段を昇りきると、そこには左右に続く廊下があったはずだ。確かにそこを目

 指していたはずだ。それなのに、いまはそこに別のものが見えている。踊り場が

 あり、そこを右側に向かいコの字に折れると、更に上へと向かう階段があるのだ。

  そんなはずはないと戸惑った桜の眼に、揺らめく澱が映った。そいつは確かに

 階下に存在していたはずだ。だから、そいつが、ゆっくりとこちらに向かって階

 段を降りようとしているかのように、蠢くはずはないのである。

 「ハイドさん──」

  我知らずに漏らした声に、こちらは我関せずといった声が言った。

 「閉じ込められた」

  桜は知世をそっと床に横たえ、慌てて、しかし恐る恐る階下へと眼をやってみ

 た。

  そこに、間違いなく澱は漂っていた。だがそこに存在したはずの一階の景色は

 見当たらなかった。踊り場と、左側にある階下へと続く階段。

 「どうなってるんですか?」

 「なに、現状説明は簡単だ。野郎、空間をねじ曲げやがった。この階段は世界か

 ら切り離されたんだよ。どこまで昇っても二階には辿り着けないし、何処まで降

 りても一階には辿り着けない。同じところを堂々巡りだ」

 「そんな……」

  桜は呟いて、手すりから身を乗り出して下方を覗き見た。

  階段の隙間の作り出す細長い空間は、遠近法によってその命脈を奪われる彼方

 まで続き、そのどれにも桜の姿があった。下方を覗き見る後頭部。信じられない

 思いで上方を仰ぎ見れば、どこまでも続く空間に、やはり上方を仰ぎ見る己の姿

 がある。

 「なんとかならないんですか?」

 「ならん」

  頭を抱えかけた桜に、

 「だが、逃げられないのはやつも同じだ。封印には絶好のチャンス──かな」

  自信たっぷりとは言い難いが、ハイドが澱に向き直った。

 「手出しするなよ」

  背中がそう言ったが、言われるまでもなかった。クロウカードが使えないとな

 れば、桜はただの少女である。黙ってことの成り行きを見守るしかない。

  眼前に出現する未曾有の決戦──。実の所、桜はそんな光景を脳裏に描き、覚

 悟を決めたのだが、全身から力を抜いたようなハイドからも、また彼の視線に捉

 われるなり、そちらに集中したように対峙した澱からも、いかなる動きどころか、

 気配すら発っせられはしなかった。

  だが、間違いなく両者の間に戦いは行われているのだ。

  桜がそう認識したのは、猫背気味に立つハイドの鼻孔から、ひと筋の血が流れ

 出したのを見たときであった。烈迫の気合も破壊をもたらす魔力も迸らず、ただ

 それだけが流れ出たことが、却って己の力では到底及ばない領域で交わされる攻

 防の恐ろしさを、寒々しく彼女に実感させた。

  静寂の膠着は数分に渡って保たれた。

  鬱血したような息苦しい緊張に耐えられなくなった桜は、ふとハイドの膝に震

 えが生まれているのを発見して愕然とした。もし彼が敗れた暁には、自分がその

 ポジションに立たなければならない。

  だが見上げた彼女は、男の口許に笑みが浮かんでいるのを見て目の前が開ける

 のを感じた。返す視線で階下を見下ろすと、果して、目に見える変化が澱にも現

 れていた。

  掴みかかる何物かから逃れようとするように、澱は時折激しく痙攣するように

 蠢いた。だが、逃れられない。もがく度に構成物質──或いは虚無──が括れて

 その力を失ってゆく。左右が駄目なら前後、それが無駄だと理解すると、今度は

 上下に。

  それが数度繰り返されたころ、澱は当初の力の大半以上を失ったかのように、

 小さく、弱々しくなっていた。

  ハイドの左腕が上がった。

  三度眼にする封印の前触れに、桜は安堵の吐息を漏らしかけたが、それは予期

 せぬハイドの舌打ちに飲み込まざるを得なかった。

  澱が細い螺旋と化し、締めつける力の輪をするりと抜けてのたうった。

  不規則に疾った触手がハイドに巻きつこうかという寸前に、フィンガースナッ

 プが乾いた音を放った。

  現れた漆黒のカードにそいつを吸収させながら、しかしハイドは左方へと顔を

 向けていた。

 「逃がすな!」

  言われた台詞に桜は戸惑った。逃げろ、ではなくて逃がすな。そして、勝利を

 目前にして、なぜ?

  背後に気配を感じて振り向いた桜は、いままさにハイドに封印されつつある触

 手と同じ物が、階上から襲いかかってくるのを眼前に立ちすくんだ。ハイドだけ

 が見分け、舌打ちをもって伝えていた事実が、彼女にもやっと理解出来た。

  敵わぬと理解した澱は、封印の気配を察し、自らを二分させたのである。一筋

 はハイドを牽制する為に階上へ、そしてもう一筋は階下へと。

  そして階下とは、即ち階上であった。

  息の詰まった桜は、迫り来る触手に成す術もなかったが、しかしそいつは彼女

 の身体を大きく迂回すると、横たわる知世に向かい、地を這って襲いかかったの

 である。

 「くそ──」

  毒づいたハイドの手に囮が消えるのと同時に、本体は知世を包む霧と化し、全

 身の毛穴に吸い込まれるようにして消えた。

 「知世ちゃ──」

  ぞっとした桜が駆け寄ったが、それより早くハイドが言った。

 「逃げられた」

 「逃げたって……」

 「この娘の中だ。憑きやがった」

 「そんな」

  ぴくりとも動かない知世に、跪いた桜は手を触れられなかった。

  おろおろと見上げると、

 「どうしようもない。憑いた魔力を外から引っ張り出すのは不可能だ」

  とハイドは言った。

 「知世ちゃんはどうなっちゃうんですか?」

 「取りあえずのところ危険はないだろう。やつは相当力を失っている。だが、あ

 る程度までは回復可能だ。そうなったら何か行動を起こすだろう」

  そんな、ともう一度呟いた桜の脳裏に、飛散して消えたボディガードの姿が蘇

 った。彼女になにがあったのか、桜には理解出来ていなかったが、実例として示

 された現象として、どうしても知世の未来をそこに重ね合わせてしまうのを禁じ

 得なかった。

  桜はじっと知世を見つめたまま、収めていたクロウカードを取り出していた。

 「なにをする?」

  見下ろしたまま問うハイドに、

 「カードを使います」

 「だめだ」

 「ハイドさんが教えてくれないのなら、自分で想像するしかありません。──あ

 れはカードを欲しがっているんですね?」

  応えはなかった。

  桜はここぞとばかりに詰め寄った。

 「どうしてカードを欲しがるんですか? それにわたし、ビルの屋上でカードを

 使いました。ビデオの中にあれが入ったときにも使ってました。でも、奪られま

 せんでした。どうしてですか?」

 「──理由はあるが、応えられない」

 「だったらわたしの思うようにします。これでおびき出せれば……」」

  桜はカードを翳したが、力強い指に手首を掴まれて悲鳴を上げた。

 「嬢ちゃんにやつの封印は出来まい」

  振りほどいた──というより、向こうが離してくれた手首には指痕が赤く残っ

 た。

 「でもハイドさんなら──」

  反目しようとして、桜は気づいた。男の気配に紛れもない披露の陰が滲み出し

 ている。改めて見上げて、はっとした。鼻血は止まっていたが、かわりに全身が

 ぼやけているのではないかと思われるほどの汗が流れていた。

  視線に気づき、ハイドは同意を求めるように肩を竦めた。

 「おれも大分消耗した。いまは拙い」

  桜は黙って俯くしかなかった。

  沈黙が流れたが、手の施しようのない荘厳ともいえる静寂は、しかしそれに見

 合うだけの時間を与えられなかったのである。

  物音に、ハイドと桜が眼を向けた先で、彼女は頼り無く起き上がろうとしてい

 る最中だった。

 「やれやれ……」

  面倒くさいといったような声が流れた。

  現実感のない光景に、桜は吐き気を覚えるほどの違和感を感じてよろめいた。

  ハイドひとりが平然と、しかし世を儚んでいるかのように困憊した顔で見下ろ

 していると、頭のないメイドはふらつきながらも二本の脚で階段に立ち、ゆっく

 りと向きを変えて彼に向き直った。

  じわり、とその姿が動いたのは、恐らく失われた頭部を階上に向けたからだろ

 う。少なくとも桜はその視線を感じた。ふつふつと灼けつくような、しかし骨ま

 で凍る不可視のエネルギーは、或いは生者に対する憧れと、そして呪いが込めら

 れているのかもしれない。

  死者はそうあるべきだろう。桜が思ったのは、よたつきながら階段を昇ってく

 るメイドの姿だった。だが、さにあらず。少女が己の生み出した幻影に悲鳴を上

 げる前に、メイドはエプロンスカートを化鳥の翼のごとくはためかせ、一気にハ

 イドの元にまで跳ね上がったのである。

  彼はそれを予期していたのだろう。

  微かな驚愕さえなく迎え撃った拳は、しかししっかりと防御されていた。

  突き出された腕に手を付き、反転しながら彼の背後に着地したメイドは、細腕

 を剛腕として薙払った。

  苦痛の呻きと打撃音を残し吹き飛んだハイドに、メイドは肉体の限界を超えた

 攻撃に折れた腕を庇おうともせず、床を蹴ってその後を追った。急激な筋肉の収

 縮は、彼女のふくらはぎを内側から弾けさせている。

  嫌な音が響いた。

  まだ宙にあったハイドの身体に馬乗りになり、メイドは彼を床に叩きつけたの

 だ。その左膝は獲物の腹部にめり込んでいる。

  腕が上がり、そして振り降ろされると、鈍い音がハイドの胸から生まれた。数

 度繰り返されるうちに胸骨は砕かれ、内側に在る心臓は潰されてしまうだろう。

  下方から貫手が疾った瞬間にあっても、メイドの乱打は続いていた。

  ハイドの一撃は、女の左胸を貫き、その心臓をも貫いていた。いや、のみなら

 ず、手中に心臓を掴んだまま、男の腕はメイドの肩胛骨を砕き、背中から外界へ

 と抜け出たのである。

  流石に動きの止まったメイドではあったが、ハイドに握られた赤黒い筋肉の塊

 は、それでも呪われた鼓動を繰り返していた。既に司るべき生もなく、送り出す

 べき血液もないままに。

  心臓が握り潰されると、死者は本来あるべき世界に立ち返ったかにみえた。だ

 が引き上げられた腕は、未だ体内に在る男の腕と同じ、貫手に構えられたのであ

 る。

  ハイドは腕を引き抜こうとして、小さく罵った。それよりも速く折れているは

 ずの細腕が行動を束縛し、お返しだとばかりに貫手が疾ったからだ。

  女の指先は狙い違わず心臓の真上に突き刺さった。

  しかしそれは、あまりに無謀な攻撃だった。

  恐るべき速さは革のジャケットを裂き、皮膚を破り、筋肉に潜り込んだが、砦

 たる胸骨の固さにくい止められたのである。反動は強く、女の指は悉く折れて砕

 けた。

  ハイドは発条の如く腰を撥ね上げ、今度こそ腕を引き抜きつつ、冷たい身体を

 頭越しに放り投げにかかった。僅かに浮いただけの身体を猫の如く反転させ、瞬

 時に立ち上がる。

  弾かれた女もまた見事な着地を果たしていた。

  先手は女が奪った。

  高々と上がった脚が、回転速度を加味してハイドを襲う。頭部ではなく頸部に

 狙いは定められていた。砕くつもりだろう。

  ぱん、という乾いた音が耳梁を打ち、男の肘と女の脛が交差した。

 「その脚じゃ無理だ」

  平然と、しかしくすんだ声で言った彼の眼には、女の弾けたふくらはぎが映っ

 ている。損傷を受けた筋肉が、本来の力を発揮できるはずもない。死者は痛みを

 感じないかもしれないが、現世にある限り、その法則には従わねばならないのだ。

 それこそが死者の生者に対する憎悪の源なのかもしれない。

  女が脚を引こうと動いたが、男はそれを許さなかった。

  絡め取られた脚を引きつけられて女がその場に転倒すると、ハイドは彼女の足

 首を踏みつけ固定し、抱えたままのもう片方の脚を無造作に引き上げた。

  大開脚に女はもがいたが、そう長くは続かなかった。ばちり、という形容し難

 い列断音に、それは遮られたのだ。

  恐ろしくも無慈悲な緊張力に屈したのは、肉体である。女の両足は股から裂け、

 右半身に骨盤を残したまま、腹部から離れてふたつになった。傷口から内蔵が踊

 り出たが、破壊者は気にもとめていないようだった。

  投げ捨てられた肉体は、それぞれまだ蠢いていたが、秩序立った動きは出来て

 いなかった。ハイドはそれを見下ろし、未練がましくのたうつ四肢の骨を砕いて、

 階下に蹴り落とした。死者は二度とは死なないだろうが、これで再び立ち上がる

 こともないだろう。

 

 

 

  4.

 

  桜は自分の意識が保たれていることに、大きな驚きを覚えていた。ここのとこ

 ろ生々しくも激しいひとの死様を立て続けに眼にしているとはいえ、人間が人間

 を引き裂く瞬間に立ち会って、どうして思考が停止しないのか。いや、それどこ

 ろか安堵の想いさえ抱いているのだ。それを慣れだとは思いたくなかった。

  だが、この際その慣れが大きな力に成り得ることは、彼女自身、否定のしよう

 もなかった。

  最後に悲しい気持ちで階下の肉塊に眼を向け、そこに想いを捨て、桜は現実と

 向き合う覚悟を決めた。

 「これからどうしますか?」

  そうハイドに訪ねることを手始めにした。見たところ新しい驚異は他に存在し

 てはいないが、相変わらず階段はメビウスの環の中にある。知世の意識も戻らず、

 魔力に憑かれている事実に変化もない。桜としては早々になにかしらの手を打っ

 て、この不安定な状況から抜け出したかった。

  唯一応えを出してくれるはずの男からの返答はなかった。

  おや、という顔で見上げた桜は、その時になって漸く彼の異変に気づいた。

  男は蒼白になった顔に、しかしぎらつく瞳を嵌め込んで呻いていた。極限の疲

 労の中での戦いをこなしたのだから、それも無理はないかと思われたが、しかし、

 桜はあるものを眼にして動きを止め、次にはその正体を理解して頬を染めたのだ。

 「ちくしょう……」

  かすれた吐息と共に知世を睨みつけた男の股間は、激しく勃起しているようだ

 った。柔軟性のない革のパンツが、しかし内包したそれの存在を、凶々しく伝え

 ている。少女にとって、それは始めて眼にする異性の姿だった。どうしてこんな

 ときにと言えるほどの度胸はなかったし、そう思える余裕もありはしなかった。

  双皃が、意識を失った少女から、もうひとりの少女へと移った。

  自分を見つめる視線にはっきりとした欲望を感じた桜は、得体の知れない──

 幼い彼女にはそうとしか思えなかった──恐怖に戦いた。

  男が一歩を踏み出した。

  少女は脅え、距離を取って退いた。

 「ハイドさん……」

  無言で更に一歩。

 「カードは使うなよ……」

  絞り出すように言われて、桜は無意識の内に禁じられた品物に手を延ばしてい

 た。唯一自分を護れる手段はそこにしかない。だが、この男の台詞の身勝手さは

 なんであろうか? 明らかに──間違いなく──よからぬ欲望をもって迫りなが

 ら、抵抗を禁ずるとは──。

  軽く膝を屈伸させただけで数歩分の距離を埋め、ハイドは少女にそれと気づか

 せる前に、小さな身体を抱きすくめ、その自由を奪った。

  桜が事態を把握したころには、その唇は塞がれていた。

  眉間に皺を寄せたハイドが顔を離したのは、決して桜の手に押し戻されたから

 ではないだろう。

  唇から流れる血も拭わずに、男は再び少女を抱いて押し倒すと、片手で細い首

 を締め、空いた片手を無防備な股間に導いた。

  柔らかい股間の肉が、固い指と恥骨に挟まれて鈍痛を生むと、桜は喉の奥で唸

 ってもがき始めた。羞恥と息苦しさに後押しされた彼女の爪は、ハイドの顔の肉

 をごっそりえぐり取った。

  真っ赤に顔を染めながら、桜は、誰もがその話題に触れたがらない、しかし機

 会があれば、面はゆい神妙な表情で語ろうと待ち構えている種類の知識を思い出

 していた。男女間に交わされる行為に、奇妙な憧れがないわけではなかった。だ

 がそれが自らの身の上に起こるのは、ずっと先だと信じて疑ってはいなかったの

 だ。なにしろ自分はまだ──そう、これこそ疑いようもなく──ほんの小さな子

 供でしかないのだから。

  嫌に熱く感じる股間の付近で、なにかが──なにかが取り出される気配があっ

 た。するつもりだ。そう感じた少女は恐ろしさに喘ぎ、意味を成さない思考の渦

 に飲み込まれた。胸の中で心臓が痙攣するように跳ね回り、しかしぞっとするほ

 どにそこは冷たい。

 「いや──」

  僅かに漏れた声に、ハイドの顔に険が生まれた。血管の浮き出た手がじわりと

 開き、また閉じかけて、ゆっくりと少女の喉から引き剥がされたのはその直後だ。

  桜はふいに自由を取り戻したことに気づき、勢い良くハイドを跳ねのけようと

 したが、質量と力の差の前に、その行動は虚しく消費されて結果を成しはしなか

 った。

  だがそれでもハイドは、じわりじわりと少女から離れつつあった。

 「よせ……」

  奥歯を噛みしめたままの発声は、不明瞭ではあったが耳に届いた。桜は怒りと

 恐怖に打ちのめされて、クロウカードを握りしめている。

 「やつの……罠だ……」

 「罠?」

  と桜は上擦った声で訪ね返した。男の顔は知世に向けられていた。

  体重が十トンにでもなったのかと思われるように、ハイドは重々しく立ち上が

 った。火傷の跡に刻まれた数条の爪痕から血を滴らせる姿は、永遠に続く責苦に

 疲れ果てた地獄の亡者のようにも見えたが、その股間には場違いなほどに屹立し

 た陰茎が露になっている。

  ふいにハイドは己のそれを握り、激しくしごき始めた。人目も憚らない自慰行

 為に桜が眼を見開いていると、彼は視線を巡らせ、ふとある物品を取り上げて眼

 前に捧げ持った。

 「仕方あるまい……」

  言って股間に導いたものは、青白いメイドの生首だ。

  桜はそれを見まいとしたが、叶わなかった。

  ハイドは両手で固定した生首に向かい、ぐいと腰を突き出したのである。

  男の陰茎が、命のない女の肉体の一部に埋め込まれた。──瞬間桜が想像した

 場所にではない。切断された頸から、食道内へ。

  長大な陰茎は食道を裂き、先端部は咽頭上部にまで達し、それでも尚すべては

 埋没していない。ぬるついた卑猥な音が──凄惨な、ではないのは、何故か桜が

 そう感じたからだ──規則正しく響き、女の髪は乱されて波うった。

  浅ましくも鬼気迫る光景は数分続き、ハイドの低い呻きと、ああ、という桜の

 小さな叫びで幕を閉じた。放たれた精液が女の口と鼻孔から溢れ、床に向かって

 糸を引く。

  ひとしきり腰を痙攣させたハイドは大きく息をつき、凌辱の対象を腰から離し

 た。それから血と粘液に塗れた陰茎を女の髪で拭き清めると、もう用はないとば

 かりにそれを投げ捨てたのである。鈍い音が響いた。

  身動きひとつしていなかった桜は、

 「わるかったな」

  と身支度を整え終えたハイドに言われても、数秒は反応出来なかった。

 「……どうした?」

 「──あ」

  びくりと肩をはね上げ、そそくさと視線を逸らす。

  ハイドは何を思っているのか、それを眺めながら頸の骨をひとつ鳴らした。疲

 労は隠せないものの、苦悩の陰は既に微塵も感じられない。それどころか──澄

 み渡った秋の空だ。

 「驚かせたな。不可抗力ってやつでさ」

 「ど、どういうことですか?」

 「死人を操ることと生者を操ることは確かに違うがね、どちらにも共通した事実

 がひとつある。要は、そいつの最も望む事柄を増幅させてやるのさ。死者はすべ

 てに与えられる静かな平等、生者は生き残るための徹底した不平等。やつはその

 両方を兼ねそろえている。生きとし生ける者の不平等を互いにぶつけさせ、それ

 をすべての者にとっての平等にする。破壊に、死。結果は虚。なにも存在しなく

 なれば、それは即ち平等だ。連中はそれをもたらすために存在している。それこ

 そが連中の存在意義だ」

  桜はしばしの沈黙の後、ゆっくりと首を振った。横にだ。

  ハイドは笑った。

 「まあ、簡単に言えばね、ちょいとばかり性欲を刺激されたのさ。──それこそ

 すべての争いと災いの元凶だ。連中にとっちゃ、まさに専門分野の初期段階」

  冗談とも本気ともつかない態度だった。

  意味不明。さもなくば取り繕い。でも真実かもしれない。桜は彼女が思うとこ

 ろの哲学的な思慮の罠に陥りかけたが、ただひとつだけ理解出来たことはあった。

 でしゃばり過ぎた死者も、彼の異変も、知世に憑いている何物かの仕業であるら

 しいという事実だ。

 「あの、もう、大丈夫なんですか?」

 「男なんてのは、一発抜いちまえば神かと思えるほどの高潔になれるのさ」

  下品な言い回しに喉の奥で唸り、桜は必死に頬の熱を追い払って立ち上がった。

  それから、

 「これからどうしますか?」

  と、やっと訪ねようと思っていた事柄を伝えることに成功を収めた。

  ハイドはちらと階下に眼をやり、歪んだ空間が復常していないのを確認した。

 「ここから抜け出したいな。空間の捩じれはそのうち戻るとして、それまで待っ

 ていられるほど気も長くない。第一そうなったら、この家の連中が黙っちゃいな

 いだろう。これ以上の厄介事は願い下げだ」

  桜も頷いた。大道寺家のボディガードの面々がまだ残っているとして、彼女ら

 が駆けつけた暁に引き起こされる事態を想像するに、どうやらそれは、あまり歓

 迎すべきものではないと納得したからだ。なにしろ彼女らは銃を所持しているの

 だ。少女にとってそれは、考えられる中でも最悪の犯罪行為であった。

  ではどうするかとなると──。

  思案に暮れる桜を尻目に、ハイドは踊り場の窓に歩み寄って外を覗いた。

  自嘲的な笑いが溢れた。

 「なんてこった。やつも迂闊だが、おれも相当なもんだね」

  示されて、怪訝な顔で桜もそこを覗いてみた。木立に、整然と刈り込まれた芝

 に、遠方の塀の向こうには立ち並ぶ家々。そこには夏の美しい景色が広がってい

 る。見慣れた、現実の景色だ。

 「ここにはなんの仕掛けも施されていない」

  窓を開けてから、ハイドは知世を肩に担ぎ上げ、差し出した手の中に恐る恐る

 桜が納まると、ふたりを抱えて窓外に身を踊らせた。

  落下の感覚に眼を閉じること一秒半。殆ど衝撃を感じないままに、桜は地上に

 立たされていた。理解の及ばない奇怪な空間の渦中にあった人々は、実に呆気な

 く、実に単純な方法でそこを抜け出たのである。

  ハイドは未だ知世を抱えたままだった。

 「さて──」

  と踵を返して歩き出す。

 「どこへ?」

  桜が問うと、

 「邪魔の入らないところだ」

 「知世ちゃんをどうするんですか?」

 「この娘をどうこうしようとは思ってない。用があるのは中にいるやつさ」

 「なにか方法でも──」

 「さて、な。とにかくだ、やつが力を取り戻すまえにはなんとかしたいんだがね」

  と実に心許ない台詞を、実に簡単に言った。

  桜は気が気ではなくなった。

 「もしなにも方法が見つからなかったら?」

 「そのときは──無理にでも引っ張り出すさ。向こうから出てくるようになった

 ら厄介だ」

 「そんなことをして知世ちゃんは大丈夫……」

  最後までは言えなかった。後ろ姿にそれを感じたのだ。この男は危険だ。

  決然として後を追おうとした桜を、ハイドは制した。

 「来るな」

 「でも──」

 「嬢ちゃんがいるとな、仕事がやりにくくなる」

 「どういう意味ですか?」

 「おとなしくしてな。意味は解るよな?」

 「待って!」

  叫んだが、ハイドは木立の陰に見えなくなった。

  一瞬遅れて走った桜は、百メートルも離れた場所に在る塀を軽々と飛び越えて

 その向こうに消える男の姿を、僅かの残像として捉えることしか出来なかった。

  立ちすくむ少女の耳に、近づいてくる甲高い音が届いた。数種類の緊急車両が

 喚きたてるサイレンの音だ。目的地は恐らくここだ。到着した彼らは、自分たち

 が遅かったことを知るだろう。

  桜は複雑に絡み合う感情を押し潰し、ひとつの信念を強く心に持った。

 「知世ちゃんを助けなきゃ」

  数秒後、少女の姿はもうそこにはなかった。

 

 

 

  疾走する黒塗りの車にはふたりの女が乗っていたが、無理な追い越しを繰り返

 す車体に罵声を浴びせかけるドライバーに、その姿を見ることは出来なかっただ

 ろう。それほどの無茶な疾走であった。

  高性能のサスペンションでも吸収しきれない、慣性による激しい揺れの中、後

 部座席に陣取った人物は、平然と己の肩に包帯を巻き直していた。鹿屋杞梨であ

 る。

  運転手を努める女が、耳に当てていた携帯電話を懐に収めた。交通法規をまる

 で無視した運転を続けながら、しかし車体に掠り傷ひとつつけず、片手で携帯電

 話、片手でハンドルを握っていた技量には舌を巻くしかない。

 「死者は四名です。ほかに全身火傷の重症者が一名」

  クラクションを鳴らしながら歩道に乗り上げた対向車を避けつつ、信号を無視

 して十字路を右に折れながら、しかしその声にはちっとも力が込もっていなかっ

 た。

 「男は?」

 「不明です。知世様の所在も確認出来ません。ですが木之本桜は現在自宅に戻り

 つつあるようです」

 「そこにまわせ」

  指示に、車は大道寺家から木之本家へと進路を変えた。

  大道寺家の異変が伝えられたとき、杞梨は病室にあって絶対安静を医師より仰

 せつかっていた。彼女はその禁を破り、電話を受けるなり車を廻すように指示を

 出したのである。事件の中枢にあの──昨日の──男らしき人物の姿が在ると聞

 いたときの彼女からは、肩の骨に損傷があると言って止めようとした医師にさえ、

 最後には結局、私は一切の責任を負いかねると言わしめたほどの、頑とした、し

 かし静かな決意が見られた。

  先程の連絡によれば、既に大寺道家に男の姿はないという。どこに消えたのか

 皆目見当がつかないが、ただ、昨日来ひとりで木之本家に張りつき、桜の動向を

 窺っていた者からの連絡があったのは有り難かった。事前の打合せに従ったと言

 えばそれまでだが、前命令が撤回されない限りは、いかなる事態に遭遇してもそ

 れを厳守すべしという指示に徹した姿勢は見事である。

  杞梨は固く巻いた包帯に指を滑らせると、別段満足そうな様子もなく、地肌の

 上に直接黒いジャケットを纏わせた。銃弾を肩に受け、摘出手術を受けた翌日で

 ある。裂けた傷口からの出血は、一応これで止められるだろう。痛みは身体から

 切り離せても、出血は徐々に体力を奪い、精神力だけでは太刀打ちできない事態

 を招く恐れがある。これから己がなにを成そうとしているのかを鑑みた場合、そ

 れは絶対に避けねばならぬ事態であった。

  防音の行き届いた車中にあって、どこか遠くから響いてくるエンジンの響きを

 耳にしながら、杞梨はじっと眼を閉じて待った。外見上瞑想しているかのような

 淡寂としたその中で、彼女はなにを想っているのだろうか。

                 第三章

 

  1.

 

  あてもなく彷徨うのは得策どころか愚策にもならないと理解していながら、し

 かしあらゆる策を封じられていては、他に手の打ちようもなかった。それが解っ

 ているからこそ、桜は恨めしさと焦燥に駆られ、必死になって汗を流していた。

  自宅に帰り着き、封印の獣に事の次第を告げ、心当たりはないかと詰め寄って

 みたものの、その返答は要領を得ないものであった。クロウカードを超える魔力

 を持つカードなど聞いたこともなければ、ましてや両者の関係など知りもしない

 と言うのである。そうなれば、もはや頼れるのは己の脚だけだ。

 「どうしよう、どうしよう……」

  荒い息の奥から、小さな、しかし悲痛な声が漏れ始めた。心中の不安が我知ら

 ずに染み出しているのだろう。

 「落ちつくんや、さくら」

  背負われたリュックの中から、気遣わしげに守護獣が言ったが、桜は走り続け

 る脚を止めようとはしなかった。ハイドの行方を探し始めて既に二時間余りが経

 過している。彼女は最初、僅かにでもあの魔力のぞっとする気配を感知出来ない

 ものかと、慎重に歩を進めていた。それが次第に早くなり、そして駆け足になっ

 たのは、つまり手掛かりの掴めない焦りからである。

 「でも、早くしなきゃ知世ちゃんが危ない目に遇っちゃうかもしれないもん」

 「せやかてこのままじゃ、さくらがまいってまう。とにかく落ちついて──」

  ケルベロスは声を潜めた。辺りに人影が多くなり始めている。桜は人気のない

 場所に行くと言ったハイドの言葉に従い、それらしき場所をしらみ潰しに探って

 いたのだが、いまは繁華街の片隅に入り込もうとしているのだ。

  工事現場、ビルの裏手、寂れた裏通り。桜は必死になってそこらに視線を彷徨

 わせたが、黒い男の姿はどこにもなかった。そもそもどこへ消えたとも知れない

 ひとりの人間を探そうということ自体無謀ではある。それでも彼女は諦めなかっ

 た。このまま友人の危機を看過したことで、もし最悪の事態を迎えたとして、そ

 のときに甘受するであろう良心の呵責が恐ろしかったのである。とにかく脚を動

 かし、汗を流していなければ耐えられなかった。

  桜がトラブルに巻き込まれたのは、それから二十分ほど経過したときだった。

  震える膝に鞭打って飛び出した路地で出会い頭にぶつかった三人の若者は、ど

 う贔屓目に見てもまともではなかった。歳のころなら十七、八歳であろうか。揃

 ってだぶだぶのズボンをだらしなく穿き、薄手のシャツをの胸元をはだけさせ、

 分不相応、或いは誰が着用したところで似合いはしないだろう、悪趣味な金のネ

 ックレスを露にしていた。どいつも髪が錆びている。

  桜は霞む眼で男たちを見上げ、同じ年頃の兄との相違に嫌悪感を感じたが、ひ

 とつ頭を下げて謝意を示すと、そのまま先を急ごうとした。

 「待てよ」

  と少女の腕を掴んだのは、その中のひとりだった。

  がくりと引き寄せられて危うく倒れそうになった桜は、走り詰めで言うことを

 聞かなくなっている膝に痛みを感じて、小さな悲鳴を上げて男の身体にしがみつ

 いてしまった。安物のコロンが不潔に匂った。

 「すみません、急いでるんです」

  と離れようとしたが、掴まれた腕に自由は戻らない。

 「ぶつかっといて、ただで行かすかよ、ばか」

  男は言いながら、少女の極度に上がった体温に欲情を抱いていた。ふわりと漂

 う汗の湿気も、それを助長している。

 「よせよ、ガキじゃねえか」

  仲間のひとりが馬鹿にしたように言ったが、

 「ガキでも女だろ」

  と小さな身体を抱きすくめた。

  恐怖を覚えた桜は四方に視線を走らせたが、うらぶれた通りに人影はなかった。

 そう思って見てみれば、なんともすさんだ通りである。薄汚れたシャッターの閉

 じた店の殆どは安いだけが取り柄の居酒屋だし、開いている店があるかと思えば、

 そこはガラスのひび割れたゲームセンターであったりしている。しかも営業して

 いるかどうかすら判別出来ない有り様のだ。周囲には反吐と小便の臭気が満ちて

 いる。

 「やめてください」

 「うるせえよ」

  まだ膨らんでもいない胸を男の指がまさぐる。

 「だめ!」

  桜は言ったが、それは背後の守護獣に対して放った言葉であった。いまにも飛

 び出してきそうな気配がある。

  男はそれを自分に向けられたものだと受け取った。

 「ガキでも同じ台詞を吐きやがる」

  と笑ったのだ。いままで何人の女にその台詞を言わせてきたのか。

 「おい、やめとけよ」

  もう一度制止の声が上がった。

 「うるせえ。おれはやりてえんだよ」

 「おめえは穴さえありゃ、なんでもいいんだもんなあ」

  傍観していた残りのひとりが笑った。

 「でもよ、見てみろよ。ガキでもなかなか可愛い娘じゃねえか。おまえら、この

 娘とやりたくねえのか?」

  ふたりはじっと桜を見つめて、ごくりと唾を飲み込んだ。いや、ひとりは飲み

 込まずに唇の端から垂らしている。

 「まあよ、やりたくねえわけじゃねえな」

 「──だな。悪くはねえ」

 「だろう?」

  口許が笑いの形につり上がったが、その眼はどろりと濁って溶けていた。恐ら

 くシンナーでも吸っていたのだろう。いや、いまならばもっと効果的な薬物を簡

 単に手に入れられる。どちらにしてもまともではない。常軌を逸した欲望が腐っ

 た脳に止めを刺し、僅かに残っていた理性を消したようだ。

 「いや──」

  悪寒に迸った悲鳴は、掌に塞がれて籠もった。

  三人は桜の手足を抱え、苦もなく彼女を引きずっていった。

  隣接しあう建屋の間を抜けると、そこに空間が現れた。元はなにか建物があっ

 たのだろうか、表通りに建つビルと塀、それから裏通りの建物に囲まれた密閉空

 間はかなり広い。五、六十メートル四方はあるだろうか。陽は差し込まず、打ち

 捨てられたゴミと雑草が、瓦礫の散らばる地面を陰鬱に覆っていた。

 「おさえてろよ」

  先駆者の特権を最大限に発した男が、残りのふたりに指示を出した。

  コンクリート製の塀に手足を押しつけられた桜は、正面の男がポケットからジ

 ャックナイフを取り出すのを見て青ざめた。

 「騒いだら、刺すぞ」

  頬に金属の冷たさが伝わる。

  男は硬直した桜にもう一度同じことを言った。桜は頷いた。

  手足は拘束されたままだったが、口を覆っていた掌が外された。息苦しさに大

 きく息を吸った桜は、慌てて眼を閉じて顔を背けた。ちらと見えただけの男の性

 器は既に上を向いていた。ハイドさんのより小さい──とは、瞬間の思考だった。

  仲間のやり方を心得ているのか、ふたりが小さな身体に重圧を掛けた。抵抗は

 虚しく屈し、少女はその場に跪かされた。膝に痛みが走る。

 「口開けろ」

  言い終わらないうちに、男は少女の髪を掴んで正面を向かせた。そしてそうす

 るなり、固く閉じた唇に陰茎を押しつけたのである。

  桜は熱く湿った肉の感触に涙を流した。

  男は呻きながら、構わずに擦りつけてくる。

 「やわらけえ唇だ……ぷりぷりしてやが──おあっ!?」

  ふいに男の腰が引かれた。跳ね上がった陰茎から精液が放たれ、べっとりと少

 女の顔を汚す。

 「あやっ──」

  口を開いたのは迂闊だった。奇妙な味の粘液がそこに流れ込み、桜は必死にそ

 れを吐き出した。地面に落ちていく唾液と精液が、なにか人間──いや、生物の

 汚らわしさを感じさせるようで、彼女は頭上の星を呪わずにはいられなかった。

 「なんだ、この早漏野郎」

  げらげらと笑う仲間に、しかしみっともなく腰を痙攣させた男は一瞥もくれず

 に言った。

 「すげえ気持ちいいぜ。やるならガキの方がいいかもしれねえ──」

  一度果てた直後であるにも関わらず、男は激しい興奮に少女のショートパンツ

 へと手を掛けた。

 「だ──いやだ!」

 「黙れ! おれの子供を生ませてやる!」

 「わたしまだ──」

 「それともその前に死にてえか!?」

  もがく桜の背中から、小さな影が飛び出した。

 「おまえらやめえっ!」

 「わわっ!?」

  ふいをつかれた連中は、揃って叫んで退いた。

 「な、なんだこいつ?」

 「やかましいわっ!」

  守護獣は宙に浮かび、金色の燐光を放った。

 「ようもさくらにゲスな真似しくさったな? 生かして帰さんから覚悟しい!」

 「なんだと……?」

  男どもの間に殺気が走った。売り言葉に買い言葉とは言うが、宙を飛び人語を

 操る奇妙な生物からそれを買うなど、常人には有りえない話だ。一時の激情に流

 され続けて生きてきた彼らには、もはや眼にしているものがなんであるのかを判

 断する能力さえないのかもしれない。

 「ケロちゃん……」

 「すまんなさくら。ワイはもう我慢しきれん」

 「やかましい。この──ぬいぐるみがっ!」

  怒声と共にナイフを突き出した男は、その恰好のまま地面に倒れ伏した。

  はっとしたいくつもの眼が見たのは、いつの間にやって来たものか、忽然と現

 れた黒服の女の姿だった。腕が手刀の形に構えられている。首筋に決まった瞬間

 の一撃がナイフ男の意識を断ち切ったのだと、何人が理解出来たか。

 「なんだてめえ?」

  独創性に欠ける台詞だが、それでもそう叫んで構えを取ったのは流石だった。

 それなりに喧嘩の場数を踏んできているのだろう。

 「失せろ」

  女──杞梨が言った。

 「なんだと──ぐああっ!?」

  頭数は減ったが、またしてもそれを目撃した者は息を呑まされた。激痛に悶え

 る男の腕は、その背後に現れていたもうひとりの女に絡め取られていたのである。

 「な、なな……」

  あっという間に仲間ふたりをあしらった女に、最後のひとりは慌てて視線を彷

 徨わせるだけで精一杯だった。一か八かの喧嘩に明け暮れてきた彼らが、正式の

 訓練を受けた人間に敵うはずもないのである。

  うろたえる男を無視すると、杞梨は桜を抱き起こした。

 「大丈夫か?」

 「知世ちゃんの……?」

  涙で霞む眼に映るのは、見覚えのある服装だった。

  杞梨は頷いて、ポケットから白いハンカチを取り出した。そっと桜の顔を拭う。

 「……ありがとうございます」

  ハンカチを投げ捨て、杞梨はもう一度頷いた。

 「あの男──ハイドを探しているのだな」

  桜はびくりと見上げ、

 「ハイドさんを知っているんですか?」

  と尋ねた。このとき杞梨がやはりと呟いたのだが、桜は気づかなかった。

 「知っている。我々も彼を探している」

 「あの、知世ちゃんを浚ったからですか?」

 「……そうだ。なにがあった?」

  俯いた桜は、次の言葉にまた顔を上げた。

 「私は君が説明をためらう理由を知っている。だがそれは私には関係のないこと

 だ。言いたくないのならば言う必要はないが、ハイドの行方についてなにか知っ

 ているのであれば教えてほしい」

  思案したのだろう。ややあって、しかし桜はかぶりを振った。

 「解りません。一生懸命探したんですけど、解らないんです」

 「そうか」

  あっさりと頷いた杞梨に向けられたのだろうか、

 「な、なあ、放してくれよ……」

  という情けない声がそのとき流れた。

  ちらと視線を受けた男は、未だに腕を拘束されたままだった。

 「わるかったよ、もうなにもしねえから放してくれよ……」

  絶対的優位に立っていたはずが、恐ろしく強い女ふたりに打ち崩されたと思う

 や、今度はわけの解らない会話を聞かされていた男の顔には、脂汗が滲んでいた。

 こんな人間でも人並みに痛みと恐怖は感じるらしい。

  杞梨が頷くと、もうひとりの女は男の腕を解放してやった。運転手を努めてい

 た女である。不眠不休の見張りと尾行を行っていた者に休養の許可を与えた杞梨

 は、彼女をパートナーとして随行させたのだ。

  男は慌てて離れると、気絶したままの仲間を引きずって逃げ始めた。もうひと

 りはとっくにこの場から消えている。

  杞梨は視線を戻し、

 「これからどうする?」

  と訪いた。

  桜は守護獣と顔を見合わせた。既に露見してしまった以上はと、守護獣は姿を

 消そうとはしていなかった。杞梨がそれを当然と受け止めているようでもあり、

 また自分たちの行っていることについて、なにかしらの事実を掴んでいると思え

 ば、今更隠れることもあるまいと考えたのだ。

 「クロウカード」

  と守護獣が言った。

 「クロウカード?」

 「こっちから見つけられんのなら、向こうから出てきてもらおうやないか。その

 とんでもない魔力とクロウカードには、なにか関係があるらしい言うとったやろ。

 ハイドは、クロウカードは使うな言うただけで、どこでとは言わへんかった。つ

 まりそれは、その魔力がクロウカードの気配を察知出来るっちゅうこっちゃ。ほ

 んなら、ここでクロウカードを使えば、巧いこといけば向こうからやって来るか

 もしれん」

  桜は頷いた。それは彼女もずっと考えていたことだったからだ。

  しかし、

 「でも、なにが起こるか解らないよ」

 「せやかてこのままじゃ埒があかん」

 「でも……」

 「まあ、さくらがいやや言うんなら、強要はせえへん。確かに危険でもある」

  沈黙が降りた。

  それを破ったのは、戸惑ったような悲鳴である。

  何事かと眼を向けた先で、男が両手を振り回して跳ね回っていた。意識のない

 身体を引きずって逃げていた、あの男だ。二十メートルほど離れていたので判別

 し難いが、なにかを振り払うかのように激しく動いている。

  最初、なにが起こっているのか桜には解らなかったが、悲鳴の中に助けを求め

 る声が混じったので、そこで始めて男の身に危険が迫っているのだと理解出来た。

 ふざけているわけではないらしい。

 「あれは──」

  守護獣が最初に気づいた。

  続けて桜も。

 「虫!?」

  男の身体に、なにか黒々としたものが蠢いていた。それは脚を這い、背中にへ

 ばりつき、手といわず頭といわずに不気味な模様を描き出している。よくよく見

 れば、それらは百足であったり蜘蛛であったり蟐であったり、どこから集まって

 来たものか、その他諸々の昆虫の集団である。

 「ひいっ──ひいいいいっ!?」

  気も狂わんばかりの男に向かい、更に虫の群れは襲いかかっていった。四方の

 草の陰から、続々と現れては人影を覆い尽くしてゆく。それは倒れている男も例

 外ではなく、ややあってからふいに意識を取り戻した彼もまた、もがきながら悲

 鳴を上げ始めた。

 「なんなのよ、これ……」

  鳥肌を立てながら桜は震えた。おぞましい光景だった。

 「ぎゃあ──」

  ついに男は倒れた。僅かに見えるシャツに、赤いものが滲んでいる。虫の群れ

 は、男の身体を刻んでいるのだ。傷口は瞬く間に広がり、そこに甲虫が侵入して

 行く。生きながら体内を貪られる恐怖と苦痛は、想像を絶するだろう。

  どん、と地面が揺れた。

  転がり叫ぶふたりの付近に土くれが吹き上がったのは、直後だった。

  土中から突き出たものは、赤黒く巨大な鋏であった。それは素早く地上に向き

 を変え、連続してふたりの男の胴を真っ二つに切断したのである。すぐに悲鳴は

 途絶えた。或いは慈悲だったと言うべきか。

 「化け物め──」

  呟いたのは杞梨だろうか。桜はそれを聞き分けられなかった。

  鋏に続いて現れたのは、全長七メートルにも達しようかという、巨大な虫であ

 った。全身を蛇腹状の、てらてらと光る毒々しい色の装甲で覆い、その尻尾の先

 には、血塗れた巨大な凶器である鋏が持ち上げられている。大きさこそ馬鹿げて

 いるが、間違いない。──鋏虫だ。

 「ケロちゃん──」

 「ちゃう、あれはクロウカードやない!」

  言わんとしている事を先んじて守護獣が断定した。桜は、それではあれはと意

 識を集中させてみたが、そこにあらゆる魔力も関知出来はしなかった。だとする

 と巨大な虫は単なる生物ということになるが、まさかそんなはずは──。

  意思を感じさせない鋏虫の頭が、ずいとこちらに向いた。威嚇するように反り

 返らせた尻尾の先で、鋏が極限にまで開かれる。びちびちという気味の悪い音は、

 それを動かしている筋肉の音だろうか。悪夢のような眺めだ。

  オレンジ色の閃光が瞬いた。銃声と共に飛び出した弾丸は、狙い違わずに鋏虫

 の頭部に命中したが、どうやらダメージは与えられなかったらしい。射撃者であ

 る杞梨だけが、被弾経始に優れた角度を持つ装甲に弾かれたのだと認識出来た。

  虫はそれを挑戦と取ったか、身体をうねらせながら真っ直ぐ杞梨に向かって滑

 り寄った。

 「離れろ!」

  桜を突き飛ばし、今度は銃口を若干上方に向けて発砲する。続けざまに三度銃

 声が轟き、金の薬莢が舞った。

  弾丸は、今度は装甲を砕いて肉に食い込んだ。着弾点は三十センチの円内にす

 べて納まっている。杞梨が狙ったのは、掲げられた尻尾の付け根であった。そこ

 ならば弾丸はほぼ直角に当たる。

  虫は苦悶に螺旋を描いて、二度、三度と転がったが、進行を止めようとはしな

 かった。あっと言う間に詰め寄り、その鋏を振り回す。

  間一髪で横っ飛びに避けた杞梨だったが、着地したばかりの無防備なところを、

 薙払った胴体に打ち据えられ、吹き飛ばされた。

 「撃て!」

  五メートルも撥ね飛ばされながら、彼女はパートナーに言った。肩の傷口どこ

 ろか、全身の骨が軋む。

  指示を出されて、始めて女は銃を抜いた。あまりに現実離れした展開に呆然と

 していたのかもしれない。

  銃声が響いたが、効果はなかった。

  虫はしかし、目標を桜に変えていた。

  ぐいと吹きつける無表情な殺気に、少女は声もなく怯えた。

  だが──。

  無防備な獲物に対して、虫はぎくりと動きを止めたのである。それから何者か

 に強要されているかのように、ぎしぎしと向きを変え始めた。

  その間に杞梨は立ち上がっていた。銃を構え、撃つ。その間に狙うという動作

 は挿まれていない。腕の筋肉の一筋の動きが、銃口をどちらに向かせるのか。す

 べては身体が覚えている。

  連射だった。薬室に一発を残し、弾倉から弾は消えた。予備は、ない。

  虫は身体を震わせたが、強靱な生命力は絶えはしなかった。体液を撒き散らし

 つつ驀進してくる様は、まさに具現化した驚異であった。

  杞梨は体を踊らせたが、虫はそれを逃さなかった。振り払った鋏が脚を掬う。

  転倒した杞梨は、伸しかかるように迫る鋏を視界に捉えた。避ける時間はない

 と、その瞬間にあってさえ彼女は冷静な判断を下していた。

 「あ──」

  小さな叫びが上がった。

  鋏は止まっていた。

  身体の両脇を挟みながら、しかし力の込められていない凶器に、杞梨は無言の

 視線を送っていた。

  それから、声の主に顔を向けた。

  桜はあらぬ方角に眼を向けていた。一瞬置いて、硬直していた身体を震えが走

 り抜けた。

 「ケロちゃん、これ──」

 「クロウカードの気配や……」

 「それも、ウォーティの」

  杞梨は唐突に質量の消滅を感じて身体を起こした。鋏虫の姿は──あった。足

 元をこそこそと逃げてゆく、小さな虫けらの姿で。怪虫の這い回った跡こそそこ

 らに刻まれてはいるが、そんなものが存在したなど、いまとなっては誰も信じら

 れないだろう。無残な死体がふたつ転がっているが、それを覆っていた虫すら消

 えていた。

  杞梨は虫けらを踏みつぶし、桜の元に歩み寄った。

 「ウォーティのカード、昨日どこかへいっちゃったのに」

 「いや、しかし間違いない。確かにいまのはウォーティの気配やった」

 「暴走?」

 「解らん。けど近いで」

 「どうした?」

  興奮気味の桜に杞梨が問い掛けると、

 「カードの気配がしたんです。わたし──行かなきゃ!」

  少女はそれだけ言って走り出した。

 

 

 

  2.

 

  周囲を固くコンクリートに閉ざされた地下駐車場が、既に使用されていないか、

 或いは廃れきってしまっていることは、漂う空気から知れた。辛うじて生き残っ

 ている天井の照明の下で、廃車同然の車が一台うずくまっているのが象徴的であ

 る。

  なんとも陰鬱なこんな場所に、用もなく入り込む者はいない。圧倒的な質量の

 気配に押し潰されそうな錯覚を抱くからだ。そこがどんなに美しく造られた場所

 であっても、人間はそれを察知する。違和感を覚える。人は決して地下では暮ら

 せないだろう。

  そんな場所に声が響いたのがいつなのか、停滞した時間に応えを求めるのは不

 可能だった

 「やれやれ、人気のないところってのは、なかなかないもんだよな」

  ぶつぶつと言って、ハイドは知世を床に寝かせた。自分は少し離れた柱の根元

 に腰を下ろし、モルタルの剥げた壁面に背を預ける。

  彼は知世を拉致して後、暫く街を彷徨い歩いた。意識のない少女を抱えた、顔

 に酷い傷痕の残る外人の姿が人目につかなかったことに、いかなる理由があった

 のかは窺い知れないが、漸く見つけ出したこの場所に、いま彼はいるのだ。

  懐から煙草を取り出して、それが最後の一本であるのを確認すると、実に勿体

 なさそうに一服つける。

  やがて人の手による品物は、煙と灰に帰してこの世から消えた。

 「聞こえてるか?」

  どこへともなくハイドは言った。

  当然応答はなかったが、彼は構わずに続けた。

 「そろそろ終わりにしようや。いい加減疲れた。おれもおまえも、同じ川底に沈

 む石ころだ。苔に包まれて眠っている方が楽だぜ。今更流れに逆らったところで

 意味はあるまい。その力を望む者もなし。──そろそろ自分の存在意義を無にし

 てもいい頃合いだろう」

  空気は動かない。じっと床を見つめる男の顔には、濃い疲労の陰が張りついて

 いた。なにがその身を苛んでいるのか、眼にした者がいたならば想いを馳せずに

 はいられなかっただろう。恐らくは、たとえそれが平穏に満ちていなかったとし

 ても、忘却の彼方に薄れ行く過去に立ち戻りながら。

 「そうかい」

  と立ち上がる影すらも薄い男が手にしたのは、三枚のカードだった。

 「嬢ちゃんからかすめ取っておいたカードだ。使いたくはなかったが──」

  言いながら、広げたカードを一枚づつ抜き取って行く。それは紛れもなくクロ

 ウカードであった。昨日桜の元を離れ、そしてハイドの手によって回収されたも

 のである。だとするならば、桜に告げた、逃げられたという言葉は嘘であったの

 か。いや、そもそも「魔力」が自由にクロウカードを操れないらしいという事実

 から鑑みて、カードを暴走させたのはハイドだったのではないのか。

  抜き取られた三枚目のカードに、ぴくりと空気が動いた。

 「こいつか」

  と、ハイドはそれを掲げた。

 「クロウカードより生まれし力は、故にクロウカードを欲する。だがいま力を求

 めて、なにを成す? 破壊か、死か。だがそれも一時だ。やがて力は失われ、永

 い眠りにつかなければならん。いままでと同じように。そして待つのか、クロウ

 カードを操れし者が現れるのを。その鎖を断ち切れないのであれば、おれたちは

 また繰り返さねばならんな」

  低く流れる声が途絶えると、周囲の薄闇を、それよりも尚密やかな薄明が退け、

 優雅に螺旋を描いた水の魔力がカードから滑り出し、滑らかな飛沫を伴ってハイ

 ドの頭上にたゆとうた。

  それを見つめる者がいた。これ以上はない自然体で立ち尽くす知世てある。

 「出てこい。こいつが欲しいんだろう。ラブポーションナンバーナインだ」

  少女に表情はなかったが、その眼の奥に、凝縮した闇のような輝きが一瞬灯っ

 てから消えた。渇望のそれだったのかもしれない。

 「確かにこいつは罠だ。おまえが出てきたら、おれは封印を施す。しかしこの力

 を欲するならばリスクを負うしかないだろう。おれを倒して手に入れろ。結局の

 ところ他に手がなければ、おれはその娘を引き裂いてでもおまえを引きずり出す」

  この男なら、やるだろう。

  それを脅しと取ったか否か、知世──彼女に憑いた魔力の真意を窺い知ること

 は出来そうに無かった。生者を生者たらしめ、また死者を死者として認識させる

 一切の気配が感じられないのだ。

  だから、少女の腕が緩やかに上がったのも、もしかすると幻だったのかもしれ

 ない。

  がり、と音がすると、白い頬に三条の傷痕が刻まれた。いくつもの珠となって

 膨れ上がった血液が、やがてひとつに繋がって溝を流れると、それは顎の先端か

 ら床に落ちて華となった。

  今度は水っぽい音が密やかに流れた。自らの爪に挟まる皮膚と肉を、少女の唇

 が貪り舐めているのだ。一本、また一本と丹念に指をしゃぶっては、ただの洞穴

 と化したような眼で、じっとハイドを見つめている。そしてすべての指を清め終

 えると、にいっと赤く染まった歯を剥き出して笑ったのである。

  そのなんと空々しくも寒々しいことだろうか。心を伝える表情とは、つまりそ

 の後ろに心が、意思が存在していることの証である。だから、心を失った者に表

 情はなくなる。だが、もしその顔に笑みが作られたとしたら──。人間は外見で

 はないとは、よく言ったものである。肝心なのはその後ろにあるものだ。

  しかしハイドにそれはあるのだろうか。見つめる視線も視線なら、見つめ返す

 視線も視線だ。あらゆる事柄に無頓着な、解脱者のそれにも似通っている。まる

 で、もうたくさんだとでも言いたげな視線。

  知世が新たな動きを見せた。白いサマードレスの襟元に両手をやると、一気に

 引き裂いたのだ。裸体が白く映えた。くすんだ世界にあって、それは幽明の如く

 滲んで輝いた。

  掌が胸に当てられると、五指がまとめて肉を掴んだ。元より平坦だった少女の

 胸に余裕はなく、引き寄せられた皮膚が張り詰め、あばらの形がはっきりと浮き

 あがった。

  そして、少女は涙を流したのだ。虚空の瞳に色はなく、口許は笑いにひきつれ

 たまま。

  ハイドはゆっくりとかぶりを振った。やれやれ、と言ったのだが、聞く者はい

 なかっただろう。

  すい、と近づいた男の腕が貫手に構えられたのを見て、始めて知世の顔に確か

 な意識の噴出が見られた。それが少女のものなのか、それとも内側に巣食ってい

 る魔力のものなのかは解らないが、間違いなく恐怖のそれだ。

 「ちっ──」

  貫手が疾る寸前に、ハイドが舌を鳴らした。同時に彼の左膝は砕け、それでも

 恐るべき凶器は知世の腹部を貫いていた。耳障りな音が密閉空間の空気を圧縮し

 たのはその後だった。

 「知世ちゃんっ!」

  背後で杞梨が放った銃声に身を竦ませながら、桜はしかし走り出していた。ハ

 イドの背中と、その影に立つ人影にただならぬ気配を感じたのだ。

  その脚が止まったのは、がっくりとハイドが崩れ落ちた瞬間だった。男の腕は

 赤く染まっていた。それが知世の、同じく赤く染まった腹部から抜け出たように

 見えた。そこからどろりとはみ出したものはなんであろうか? ──いや、あれ

 は──しかしそんなはずは──。

  恐ろしい幻想に──そして彼女はそれが真実だと悟っていた──再び桜の脚は

 動いた。

 「さくら……」

  守護獣の逡巡を示す声が聞こえたが、桜は止まらなかった。しかし加速のつい

 た身体は知世に近づくにつれて次第に速度を失い、最後は完全に停止して、震え

 始めたのだ。

 「あ……」

  知世が小さく言った。ゆっくりと腹部に手を当て、次には視線を下ろし──。

  脈動しながら吹き出る血液と、ぬらぬらと光る内蔵は足元にまで垂れ下がって

 いた。

 「知世ちゃ……」

 「さくらちゃん……」

  持ち上がった顔が桜を捉え、血に染まった腕が助けを求めて差し出された。

 「さくらちゃ……たすけ……」

  駆け上がった血液の塊が口から溢れ、飛沫が桜に点々とした模様を描いた。

 「ひいっ──」

  一瞬置いて桜は必死にそれを拭った。見開かれた瞳には異形の者を見るような

 憐れみと──蔑みがあった。

  知世が一歩を踏み出した。

  桜が一歩退いた。

  更にもう一歩。

  そして知世は言った。

 「ひどい……」

  それが最後だった。

  青白い顔に哀しみと恨みの念が噴出したと見るや、ふいにそれは消失し、能面

 と化した顔は落下してコンクリートに打ちつけられた。ばしゃりと音がして、少

 女を中心に血溜まりが広がった。

  桜はそれを見下ろしていた。ぴくりともしない知世は、死んでいる。子を産み、

 育てる為に、その胸に乳房を造ることもなく、彼女は少女のまま死んだのだ。生

 物としてこれほど不甲斐ないこともないだろう。

 「うそ……うそだよ……」

  しかし真実だった。ぱちんと響いた小さな音が桜に正気を取り戻させた。それ

 ともそうではなかったのかもしれない。

 「どうして!?」

  でたらめな音量で叫んだ桜は、うずくまるように座り込んでいるハイドに詰め

 寄った。男の手には黒い紐状の陰が握りしめられ、それは弱々しく逃れようとも

 がいていたが、翳された闇のカードに吸い込まれて消滅していった。知世の体内

 から引きずり出された魔力だったのだろう。

 「どうしてこんなことを!?」

 「どうして、か」

  男の声は囁き程度の力しか込められてはいない。

  だがその声に、桜は気押されたのだ。

 「教えてやろう。そうする理由があったからだ。結局おれも、存在意義に縛られ

 てるのさ」

 「ひとを殺していい理由なんてないわ」

 「ひとの命はそれほど重要じゃあない」

 「そんな──そんなことない!」

 「ならば尚更だ。一か、十か。十か、百か。失われるのならば少ないほうがいい」

 「失わせずに済んだかもしれない」

 「それを決められたのは、あの時にあってはおれだけだ」

 「勝手なことを──」

 「どちらにしろ」

  とハイドは大きく息を吐くと、ゆっくりとその身を横たえた。

 「終わった。すべて。いまという時の中では」

  大往生の末に柩に納まった死者の如く、その顔は満足気であった。それなのに

 ちっとも安らかに見えないのはどういうわけだろうか。まるでそれがうたかたの

 平穏でしかないと言いたげに。

 「返すよ」

  眼を閉じたまま、二枚のカードを差し出す。

  桜は黙って受け取った。声が出なかったのは、何故か思ったからだ。死者に鞭

 打つべきではないと。

 「それからこいつも。封印してやってくれ」

  呟いた男の頭上に、看取るかのように漂う水の魔力が在った。

  その水が、ざわりと波打った。

  ごくん、という重い音に続き、どさりと軽くはないものが倒れる音が響く。

  向けられた三対の視線の先で、杞梨が倒れていた。その頸は百八十度捩じられ、

 幸運なことに死顔を他人に晒してはいなかった。

 「しまった……やつめ、三体に……」

  悔し気にハイドが呻くと、杞梨の頸を捩じり切った張本人である彼女のパート

 ナーの顔から、ぽん、という笑いを誘いそうな音が響いた。まるでシャンパンの

 栓を抜いたような音の正体は、女の両目が眼窩から抜け落ちた際に発したものだ

 った。後から吹き出したのは、血液と、脳漿と、黒い陰だ。ハイドをしてその気

 配を感じ取れなかったほど微弱な陰は、封印を逃れようと分離した陰のひとつで

 ある。封印の寸前分離を果たした陰は、二体ではなく三体にその身を分かってい

 たのだ。それがどこに潜み、どのようにして憑いたのかは窺い知れないが、宿主

 となった者にそれを語ることはもう出来ない。

 「封印を!」

  立ち上がることもままならないハイドが叫んだが、うねり来る陰にそれが間に

 合わないことは明白だった。桜は封印の杖を具現化させていないのだ。水の魔力

 はたじろいだように停滞していた。

 「立ちふさがれ!」

  次に迸った台詞に、桜は戸惑った。

 「ええっ?」

  だが、そう聞き返してから彼女は気づいた。封印の晩、陰は桜に触れられなか

 った。のたうつ触手は、桜に触れて消滅した。知世に憑いた魔力はその寸前、大

 きく桜を避けて疾った。そしてハイドの逃がすなという言葉の意味。──力を失

 っている魔力は、自分の潜在的な魔力には勝てないのだ。それはあたかも、溶鉱

 炉が内に孕んだ炎を外に漏らすことなく、しかし触れるものみな焼き尽くすかの

 ように。

  そして気づいたときには、いつも遅すぎるのだ。

  陰が水に触れる寸前、両者は引き合うように求め合い、一時二種類の斑模様と

 なって停滞したが、次には滲むようにひとつの色となって膨れ上がった。潰され

 たような漆黒でもなく、純粋な透明でもなく、打ちつけてくような紺碧。

  投網のように広がった水が、ハイドの身体を覆って包み込んだ。それがふたま

 わりも縮んだとき、恐ろしい圧力のその中で、男の骨格は砕かれていた。苦鳴は

 確かにあったかもしれないが、それは聞こえなかった。

  雑巾のようなハイドを吐き出した水が、ゆらりと浮き上がってせわしなく蠕動

 を始めた。それがぴたりと止むと、すさまじい気配が空間に満ちた。隅々にまで

 広がったそれは押し戻され、濃密な叫びの粒子となった。身も狂わんばかりの歓

 喜の叫びだった。

 「──き、きもちいいっ!?」

  瞬間、蕩けるような顔で、しかし絶叫した桜は果てていた。始めて経験する性

 的絶頂感に腰と脳を焼き尽くされ、恥じらいを感じるまえに失禁しながら崩れ落

 ちたのだ。高圧に押し出されるように吹き出る幼い愛液は、尿よりも多かったか

 もしれない。痙攣しながらのたうちまわる彼女は、さながらナメクジのようにそ

 の跡に透明な粘液を残している。

  そしてそれは桜だけではなかった。守護獣は地に墜ち、手足の捩じれたハイド

 は多量の精液を射出していたし、死んでいる知世も、杞梨も、彼女のパートナー

 だった女も、音さえ立てて愛液を噴出させながら痙攣を繰り返していた。それほ

 どの絶頂感。それほどの歓喜。

  新しい気配が膨れ上がった。それは床面を三十センチも陥没させ、天井を三十

 センチも跳ね上げた。とばっちりを受けた壁面は裂け、落下した天井によって崩

 された。地下駐車場は斜めにかしいだ廃墟となろうとしていた。あちらこちらで

 崩壊したコンクリートが喧しくわめき立てている。水と融合した魔力が、地上へ

 出ようとしているのだ。

 「嬢……ちゃん……」

  破壊音の中から途切れ途切れの声が流れた。

  ハイドはもう一度言ったが、桜はうつろな瞳で涎を流していた。意味を成さな

 い唸り声を上げては、時折切なげに眉根をひくつかせる。絶頂の名残は彼女を更

 なる高みに押し上げようとして、しかしそこで停滞していた。終結を迎えられな

 い快感に、少女は翻弄されているのだった。

  くそ、と罵り、男は軽く眉間に皺を寄せた。

  途端に桜の全身に痙攣が走り、彼女は腰を高々と持ち上げて果てた。

 「満足……したか……?」

  男の声にぼうっとした視線を向け、それでも少女は頷いた。問われた言葉の意

 味は解していたかもしれないが、それがどんな事柄に対しての質問なのかを判断

 しているかどうかは甚だ怪しい。

 「聞け……嬢ちゃん……」

  とハイドは言った。声が聞き取りにくいのは、砕けた肋骨のせいだろう。

 「クロウカードを……使うん……だ……」

 「クロウ……カード……?」

 「そうだ……やつを……倒せ……」

 「でも……」

  序々にではあるが、少女の眼に駆逐されていた理性の輝きが立ち戻りつつあっ

 た。ゆっくりと身を起こす。

  ハイドはそれを見つめながら、

 「他に手は……ない……」

  と囁いた。途中、極端に声の質が低下して消えかけたが、再び発生した崩壊の

 轟音──今度は五十センチも跳ね上がって落下した──に立ち直った。

  カードを使うな、いや、使え。矛盾した言葉に桜は混乱していたが、真意を確

 かめる術はなかった。ハイドにそれを訪ねたところで、どうやら彼が応えてくれ

 るとは思えなかったし、応えられる状態ではないことも明らかだった。

  轟音と、振動。落下した瓦礫が足元を打った。

  内心、桜は恐怖に戦いていた。なぜこんな場所に来てしまったのかと後悔もし

 た。強大な魔力など、自分には関わりがない。クロウカードにしてもだ。なぜな

 ら自分はキャプターを──。

  熟柿を潰したような音に眼を向けると、コンクリートの塊に挟まれ、知世の右

 足が粉砕されていた。

  ぞっとした冷気が、脳を焦がす灼熱と化した。桜自身それを責任転化だと理解

 していたが、どうすることも出来なかった。助けを求める友に恐怖した事実。救

 えなかったとしても、手を差し延べるべきだった。見捨てられた少女が最後に放

 った呪いの言葉。それを自らの責任として受け止めるには、あまりに桜は幼かっ

 た。

 「あなたのせいよ──」

  震える声が罵ったのは、男か、魔力か。

  封印の鍵が少女の掌に浮いた。契約の言葉と僅かな時間で、それは封印の杖と

 化した。

  迸った魔力に、水がざわりと蠢いた。そこから溢れ出た気配の正体は歴とはし

 ない。侮蔑かもしれなかった。

  桜は顔面が鬱血するのを感じた。鼻孔の奥に血の味が生まれる。だが、それだ

 けだった。

  次に空気を震わせたのは、驚愕と激しい怒りだ。己の不甲斐なさに拳を振り立

 てたかのようだった。

  水は震えて八方へと散った。

 「どないなっとんのや……」

  いつの間にやら這い寄っていた守護獣の声に、ハイドは言った。

 「やつは……まだ完全じゃあない……ウォーティの力を取り込んだだけでは……」

 「どういう意味や?」

 「本来の力は……まだ……戻っていない……いまは……ウォーティの力に頼ると

 ころが……大だ……」

 「ほんならさくらでも勝てるんか?」

 「解ら……ん……」

 「くそっ!」

  3.

 

  罵りが生まれたころ、桜は大きく身をかわしてカードを放っていた。でたらめ

 な方向から疾る水の槍は、易々とコンクリートに突き刺さる。

  カードから迸ったのは風の魔力だった。水の魔力に対抗するには火の魔力を用

 いるべきではあったが、彼女の手元にそのカードはない。

  滲み出た風は指示された敵を前に、しかし怯んだようにぎくしゃくと動いた。

 「さくら! ウィンディだけでは勝てへんぞ!」

  応答は出来なかった。百も承知の上に、恐ろしさで舌がもつれている。

  走りながら、また新たなカードを放った。

  力のカードから噴出した莫大な破壊力は、しかし風の魔力と共に躊躇を示した。

 「ああっ!?」

  悲鳴を上げて桜は倒れた。かわしたはずの水槍の一本が、微細な、しかし数十

 本の錐となって右足を貫いていた。ひとつひとつの傷は肉眼では捉えられない程

 度だったが、激痛は脳を殺すほどに強かった。生存本能が恐怖という化け物に追

 われていなかったら、ただ泣き叫ぶことに救いを求めていただろう。

  機を逃さずに上空から襲いかかった水槍は、しかし弾かれ、そして逸らされて

 床に食い込んだ。とっさに発動させた楯の魔力が少女を護っていた。

  そして更に発動させた影の魔力が空間を覆い尽くし、一点に向かって凝縮を開

 始したのである。内に閉ざされた水もまたそれに従い、もがきながらも纏めあげ

 られつつあった。

  だが影の力もそこまでだった。押し破ろうとする力は強大で、そう長くはもた

 なかったのである。

  が、連続して発動された魔力に力を得たのか、風の魔力がそのときになって疾

 ったのだ。翡翠の色の渦が影と重なり、包囲をより強固なものとして構築する。

  そこに見えざる力の魔力が鉄槌を振り下ろし、すべてを粉砕してよしとした。

 「いけない──」

  ちらと見るなり、窮余の策だったとはいえ、桜は力のカードを使ったことを後

 悔した。飛沫となった水が宙で泡立ち、たちまちのうちに蒼い霧となって広がっ

 たのだ。眼にするのは二度目である。熱気が肌を刺したが、それはまだ錯覚だっ

 た。

  風の魔力も影の魔力も、水と一緒に千切れ飛んでいた。修復に若干の時間が要

 る。桜は立ち上がれぬまま、視界を覆う霧を裂こうと剣のカードを放ち、力を開

 放した。

  魔力を宿した封印の杖が細長いレイピアとなり、白刃が閃いた。

  脈動するように霧が蠢いたのはその瞬間のことだった。

 「いかん──」

  呻いたのはハイドだが、桜には届かなかった。

  霧が密度を増した枷となって剣を包むと、すぐにもぎ取った。

  剣の魔力を吸収されたのだと桜が悟ったのは、膨れ上がった魔力に心臓を握り

 潰されそうになったからだ。強大な魔力はその気配を消そうともせずに、いまは

 ところ構わずに放出している。

  霧に鋭い刃が潜み始めた。

  頬が、脚が、腕が、伝説の妖獣、鎌鼬に裂かれたかのように、ぱっくりと傷口

 を開く。あまりの鮮やかな切り口に痛みは殆ど感じなかったが、一瞬遅れて溢れ

 出す血液の量は、恐怖以外のなにものでもなかった。実体を持たない相手には楯

 の魔力も及びはしない。

  桜は霧から逃れようと転げまわったが、どこに逃げ場があるというのか。

  それを彼女に教えたのは、壁面の冷たさだった。全身を切り刻まれながら、つ

 いに追い詰められたのだ。

  肉に食い込む実体のない刃の感触に悲鳴を上げ、それを遠くに聞きながら、桜

 はいたぶるような魔力に激しい憎悪を覚えていた。その気になれば、それこそ一

 息に息の根を止められるだろうに、そうしようとはしない。それが新しいカード

 を使用させる為の手段であるならばまだ納得も出来たが、これは違う。力を得た

 歓びに興奮した魔力が、我を忘れて小躍りしている結果がこれなのだ。気配から

 そうと知れる。

 「殺してやる……」

  食いしばった歯の隙間から低い呻きが漏れた。だが、果たせそうには見えない。

 現在活動しているクロウカードの魔力は四体。魔力それ自体はカードに秘められ

 し力ではあるが、それを制御するのは術者だ。カードの魔力は着実に術者を疲労

 させる。桜はこれまで、同時に四体のカードを操ったことはなかったが、始めて

 の経験は想像以上にきつかった。

  なんとか身体を起こそうと上げた顔に、染み入るような冷たさが生まれた。傷

 口を清めるかのような清廉な感触は、そしてまた彼女の精神を揺さぶった。

  壁にすがりながら立ち上がったそこには、騒乱に断絶された太いパイプが走っ

 ていた。二本あるうちの一本から滴り落ちた水滴が、少女の気を引いたのだ。

  そこからなにを読み取ったのか、桜に瞳に決死の輝きが瞬いた。パイプには錆

 びついたバルブが付属している。渾身の力で捻ると、パイプからは透明な水が音

 を立てて流れ出た。

  祈るようにもう一本のパイプのバルブを捻る。

  すぐに気体の漏れ出す音が、忍び寄るように耳に届いた。鼻孔には馴染みのあ

 る、そして普段は恐怖の対象としてしか感じていなかった匂いが籠もった。それ

 を桜がどれだけ芳しく感じたか、他人には理解出来なかっただろう。

  バルブを全開させた桜は、風の魔力を呼び寄せた。復帰を果たした風が戻ると、

 台風のように己の周囲を渦巻かせ、霧から自身を護る。それから力の抜ける膝を

 叱咤しながら歩き出した。幸か不幸か、出血のせいで脚の痛みは麻痺していた。

 「ケロちゃん──」

  微かな呼び声を聞き、桜は霧の中をそちらに向けて歩を進めた。

  やがて視界の中に、横たわるハイドと、必死に桜を呼び続ける守護獣の姿が現

 れた。

 「さくら!」

 「じっとしてて!」

  飛び寄ってくる守護獣に言い、桜はハイドの傍らに膝を着くと、風の魔力の内

 部に彼らを保護した。

 「ハイドさん」

  声を掛けると、男の瞼がぴくりと動いた。

 「なん……だ……」

 「ライター持ってましたよね?」

 「ああ……」

 「貸して下さい」

  男はじっとしたまま、しかしなにも訪かずに言った。

 「胸のポケットだ……」

  探ると、金のオイルライターが現れた。

 「どうするんや?」

  守護獣が言ったが、桜は応えなかった。

  そのまま数分、霧は桜に手を出せないことを悟ったのか、ついに意識を集中し

 始めた。ただし、それは風の魔力を破る為ではなく、外界へ出ようとする為の集

 中だった。

  一際大きな破壊音が響くと、強固だった天井が、もう限界だとばかりに泣き言

 を言い始めた。もう一度は、多分ないだろう。

 「さくら──」

  不安気な声に、少女は手中の品物に炎を灯らせた。巧くいくかどうかは神のみ

 ぞ知るところだったが、それに祈る気にはなれなかった。

  放り投げられたライターの炎が、風の向こう、そして霧の中に消えた。

  硬質な響きが小さく鳴った。

  次には──。

  圧倒的な質量を伴い、オレンジと青の中間で輝く炎が馬鹿げた速度で床を這う

 と、風の防壁の中にあってさえ熱気が肌を打った。桜は身を伏せて眼を閉じなが

 ら、心中で喝采を叫んでいた。

  地下駐車場の更に地下、そこに設置されているボイラーへと続いていたガス管

 には、莫大な量の可燃ガスが封じられていた。燃えることのみを使命としている

 物質は、きっかけを得て満足していた。喜々として熱と光を放出しながら、その

 力の及ぶ範囲すべてを包んで燃え盛った。

  空間すべてに炎が走ったのは一瞬だった。あとはパイプから吹き出るガスのみ

 が、あの恐ろしい火炎放射器のように轟々と炎を送り出すだけであったが、炎の

 前にあって脆弱な霧には、それだけで十分だった。細かい水の粒子は眼には見え

 ない水蒸気となり、魔力を失い、周囲の物体に凝結した無害な水滴となって床に

 わだかまった。

  水と、剣。力を焼き飛ばされた魔力が、カードに戻って舞い落ちた。その上に

 残ったのは、燃えかすのような黒い陰だ。貧弱でみっともないそれは、隠れ場所

 を求めているようにも見えた。

  顔を上げた桜はそれを見て、いましかないと奮い立った。風の魔力を鞘に収め

 ると、敢然と立ち向かったのである。──しかし、彼女がパイプから吹き出して

 いたはずの炎が消えていることに気づかなかったのは、大きな失敗だった。

  少しもしない内に、手足が重くなった。胸が押し潰されたように息苦しくなり、

 目の前が暗くなる。なぜ、と思う間に、少女は喘ぎながら昏倒していた。背後で

 は守護獣も意識を失い、ハイドだけが──いや、彼の意識の有無は確認出来なか

 った。一面を覆った炎は空気中の酸素を奪い尽くし、それを与えてはくれなかっ

 たのだ。

  陰は隠れ場所を発見した。いやらしく滑り寄ると、桜の中へと染み込もうとし

 た。

  意識はなくとも潜在的な魔力は存在している。だが、少女のそれは疲弊しきっ

 ていた。我が身を焦がされ、その大半を失いながらも、やがて陰は生者の肉体に

 包まれたのである。

 

 

 

  地下といえども空気の流出入はある。緩やかに流れ込む新鮮な空気が、熱く湿

 った空気を駆逐するころ、ゆっくりと立ち上がる姿があった。桜である。

  ぼんやりと立ち尽くす姿の、なんと空恐ろしいことだろうか。着衣は裂け、全

 身を血に染め、その顔には感情がない。いまの姿を見たとして、誰が彼女を彼女

 たると認識出来ただろうか。

  桜は──桜だったものは──ポケットの中からクロウカードの束を取り出した。

 一枚ずつ眼前に翳し、それを足元に捨ててゆく。

  いかなる情熱も感じられない作業が幾度か繰り返された後、ぴたりとその腕は

 動きを止めた。そして桜は笑ったのだ。目の前には木の属性を持つカードが不気

 味な視線を一身に浴びて凍っていた。

  足元のカードの山の底から、封印の杖が取り出された。桜でないものは、しか

 し桜なのだ。手にされた封印の杖が共鳴音を発して震えた。

 「待てよ……」

  静寂があって、ゆっくりと視線が半円を描いた。

  骨格を完全に砕かれたはずの男は、いまにも崩れ落ちそうな雰囲気のまま、し

 かしふらりともせずに立ってた。百年の昔からそこにいたとしても、不思議では

 ない。

 「往生際を弁えろ……」

  少女の視線になにが含まれたのかは解らないが、ハイドの身体に痙攣が走り、

 首筋から血液が吹き出した。微弱な魔力の前にあって、しかしいまのハイドには

 それすらも危険なのだろう。

  片手で頸を撫で、ハイドは言った。

 「今生の別れだ。餞別替わりにおれの名を教えてやろう。おれは──」

  間が開いた。その間に星が生まれ、そして死んだ。

  流れ出た男の声は、古めかしくも見事なキングス・イングリッシュだった。

  もたらされた結果は激しかった。

  少女は少女のまま、しかし急激な老化に見舞われ、白髪を靡かせて倒れたのだ。

  そして自らの名を口にした男も、また。

  恐怖の気配が波紋のように広がったが、陰は逃げられなかった。侵入を拒んだ

 桜の魔力が、今度は退出を許さないのだ。桜であったものは桜ではなく、しかし

 間違いなく桜であるとは、陰が望んだことではなかったか。

 「慌てるな。最後まで聞けよ」

  方膝を着きながら、老人の声で男は続けた。

  朗々と流れるそれは、惑星の運行を遙かに遡り、いかにしてその魔力が造り出

 され、そして己の存在が意味するところを語っていた。殊更の感情も込めずに紡

 ぎ出される言葉は、達観した歴史学者の講義のようでもあった。過去の出来事と

 は不変であり、それだけが唯一この世界での永遠を手にしているのだ。

  やがて男がすべてを語り終えるころ、永遠を手にする資格のないふたりの身体

 は、それこそ骨と皮だけによってのみ世界に形を留めていられる存在となってい

 た。男がいかに問われようとも決して口を開かなかった理由がそれにあるのだと

 して、隠匿という名の下に彼に呪いを与えた人々の所業は、しかし耳にした者の

 死という形でしか計り知れない。

  最後に陰の気配が八方に疾り、そしてそのまま消えた。魔力は封印されること

 もなく、桜の肉体と共に滅ぼされたのだ。静かなる平等。自らの存在意義。それ

 に包まれて、魔力は夢を見るのだろうか。

  男の眼は干からびた桜に向けられていた。少女の胸は微かに起伏を繰り返して

 いる。意外にも安らかな振幅だった。

  すい、と男の顔が上がったのは、それに気づく前か、後か。

  宙に漂うのは、ぼんやりとした濃紺だ。風に靡く布地のように、ゆったりと舞

 っている。

 「そうか……おまえか……」

  男は言った。濃紺は応えなかった。

 「なぜ、と言っていたな。応えを求めるあまりに魔力に取り込まれたか。応えは

 ──いや、いい。おまえは一個の存在であって、それは多数の中にあって始めて

 意味を成す。自我の疑問に応えなどありはしない。おまえがあの場で死んだこと

 が唯一、それが応えと言えるかもしれないな」

  男が視線を落とし、そしてもう一度上げたとき、そこにはなにも存在していな

 かった。名残は、ふわりと吹き抜けた風だけだった。

  頬を撫でる風に男は眼を閉じ、それから桜に歩み寄った。

  傍らに膝を落とすと、ジッパーを下ろし、自らの胸をかき開く。左胸に傷痕が

 あった。それは生々しく開いたまま、脈打つ心臓さえも垣間見せていた。

 「呪われた刻の魔力か。まさか役に立つとは思わなかった」

  言いながら少女の顔を傷口に近づけると、そこから流れ出た血液は、導かれた

 かのように小さな唇の中へと消えていった。

  こくり、と喉が鳴った。

  男はそれを聞きながら、更に老いていった。

 

 

 

  意識を取り戻した桜は、奇妙な感覚に囚われていた。すべての出来事が一時に

 脳裏に蘇り、それなのに不安を感じないのだ。平穏な気だるさが身体の芯で疼い

 ては、すべて終わったのだと告げている。

  ゆっくりと上半身を起こした桜は、両手を見つめてからそっと撫でた。あれだ

 け痛めつけられたはずの肌には、傷痕ひとつ残ってはいない。

  背中に気配を感じて振り向くと、倒壊を免れた柱の影に、黒い革パンツの膝が

 見えた。その向こうで、何者かがゆったりと座っているのだろう。

 「ハイド──さん?」

 「ああ」

  戻ってきた声はどこか嗄れていたが、桜は胸を撫で下ろしたのだった。

 「あれ、は?」

 「終わったよ」

  ため息のように言われ少女は気づいた。傍らに整えられたクロウカードの束と、

 封印の杖が並べて置かれている。

  彼女は杖を鍵に戻し、クロウカードを──自分でも驚いたことに──大切に取

 り上げてポケットに収めた。

  それから四方を見回した。安堵は、やはり自分の眼で確認しなければ真実たり

 えない。

  破壊の跡は顕著だった。周囲は闇に閉ざされているが、奇跡的に生き残った照

 明がそれを浮き上がらせている。が、それはかつてあった破壊となっていた。い

 つの世にあっても騒乱の後の静寂には、そうあって然るべきだと思わせる安穏と

 した空気が漂うものだ。だからひとはそこに新しいものを築けるのだろう。

  そして辛うじて視覚が捉えたその場所に、彼女はいた。

  小さく喘いで少女は顔を背けた。

  ややあって、

 「似ているな」

  と男の声がした。

  それは桜の胸に重く響き、全身に行き渡って馴染んだ。

 「嬢ちゃんとあの娘。血の匂いが同じだ。血縁があるのか」

  少女は頷いた。

  声は出さなかったが、姿の見えないはずのハイドも頷き返した。

 「血は水よりも濃い、か。──助けたいか?」

 「出来るんですか?」

  跳ね上がった顔には、複雑な表情が浮かんでいた。

  せっつくような響きにも、男の声は落ちついていた。いや、そうではなく──。

 「おれの血と、嬢ちゃんの力とあの娘の血。──おれにも出来るのか、新しいも

 のを生み出すことが」

  それは自己への問い掛けであったのだろうか。自我の疑問への回答はない。そ

 う看破している男の。

 「お願いです、知世ちゃんを助けてあげてください!」

  すがりつこうとでもいうのか立ち上がりかけた桜は、男の台詞に押し留められ

 た。

 「心臓を食らえ」

 「──え?」

 「命を存続させているのは心臓だ。あの娘の心臓を食らえ」

 「そんな……」

  逡巡は強かった。親友の心臓を食らう。その行為にどんな意味があるのか少女

 には理解出来ない。親友の心臓を食らう。逡巡は強かった。

  そして桜は知世の傍らに立っていた。脳裏に優しげな微笑みを浮かべる知世の

 姿があった。振り払うと、たった一度だけ眼にした、怨念の宿る瞳で見つめる姿

 が現れた。振り払う代わりに、横たわる少女の身体を転がした。

  霧に刻まれ、炎に焼かれた背中と入れ代わりに現れた腹部には、無残な破孔が

 穿たれていた。はみ出している内蔵は、まさかこれほどの容量が小さな身体に納

 まっていたのかと思わせるほどだった。死に顔は──見ないようにした。

 「使え」

  美しい音を立てて、放り投げられたナイフが滑ってきた。

  回転しながらやがて停止したナイフに視線を送り続け、桜はそれを手に取った。

 冷たさのあまり肌が灼けるのではと思わせる柄には、複雑な紋章が浮かび上がっ

 ていた。

 

 

 

  4.

 

  小さな手には多少余る大きさのナイフを胸の上に翳す。その冷たさと血に塗れ

 た裸体が、これからひとを切り裂こうという禁忌を緩和してくれるのは有り難か

 った。

  片手をひんやりとした胸にあてがい、滑らないように固定する。金属の切っ先

 を左胸に押しつけ、縦に切り開こうと滑らせた。

  ナイフが弾かれて飛んだ。易々と切開できると考えていた人体は意外な弾力と

 強靱さを持ち合わせ、食い込む凶器を拒んだのだ。

  失敗したことにより再び恐怖に囚われた桜は、しかし作業を再開した。

  今度は十分に刃先をもぐり込ませ、切るというよりは引き裂くようにえぐった。

  皺の寄った皮膚が裂け、薄い筋肉が爆ぜる。切れ味の悪い包丁で鶏肉を処理し

 ているような感触に、少女の意識は罪悪感と薄気味悪さに混乱しかけた。もはや

 なんの為に心臓を取り出そうとしているのかは問題ではなくなっていた。強制で

 も自発的行為でもなく、彼女は無我のままに力を込めた。

  ごり、とした響きがナイフを通して手に伝わる。あばらを通過する度にそれは

 やってきた。

  二十センチほど切開した後、桜は傷口に両手を掛けて引き裂いた。べりべりと

 肉の剥がれる音がして、赤白い肉の張りついた肋骨が剥き出しになる。

  骨組みの籠の間にナイフを入れる。横に裂くと、胸膜の内側になにかが見えた。

 知識の中でおぼろげに霞む内蔵の形は、どうしてもそれとは一致しなかった。特

 別な器官として考えていた内蔵は、こうして見ると意味を成してはいないようだ

 った。ただの赤。ただの肉。人間には血と肉しか詰まっていないのではないか。

  厚みを備えたへら状にも見えるものが肺臓だろうと見当をつけ、それに半ば食

 い込み、半ば包まれるように存在しているものが心臓だろうと桜は考えた。

  肋骨の間に腕を差し入れると、意外にも骨は簡単に門戸を開いてくれた。片手

 で開いて、その隙間に腕を押し入れる。手首で肋骨を固定しておいて、もう片方

 の腕も差し込んだ。体内は微かな温もりを保っていた。

  心臓の外郭を探るように肺の裏側に指を入れ、両手で掬い出すように引き上げ

 る。かなりの抵抗があり、少女は心臓から延びている血管に想いを馳せたが、損

 傷なく取り出そうという意識は働かなかった。

  肉の引き千切られる振動を感じながら、更に引き抜く。肋骨が逃がすまいと手

 首に噛みついていたが、それも無駄な抵抗だった。

  泥の中に埋まった足を引き抜くような音がして、心筋で構成された丈夫な器官

 が外気の中に孤立した。桜は自分の握り拳程度の大きさのそれを、引き抜いた余

 勢のままに口許に押しつけた。一瞬でも躊躇を伴う停滞が発生すれば、二度と腕

 は動かないだろうと解っていたからだ。必要以上に心臓を口中に押し入れたのは、

 そんな理由に後押しされたからだろう。

  顎を閉じると奇妙な快感を伴う歯応えがあったが、容易には噛み切れなかった。

 ぶつぶつと食い込んだ歯が肉を固定した後、両手を引き離して千切る。握り締め

 た掌の中で粘ついた音がした。

  口一杯に頬張った肉は、咀嚼することすら妨げる量だった。噛み締める度に唇

 を割って唾液と肉片が溢れ出る。桜は舌に鉄臭く苦い血の味を感じたが、肉その

 ものの味は知覚しなかった。

  機械的に、きっかり五回咀嚼を繰り返したところで、少女はそれを飲み込んだ。

 十分に砕かれていない肉は食道を押し広げ、切迫した痛みを伴って下りて行き、

 悠々と一分近くの時間を掛けて胃に納まった。大きく息をつき、はからずも逆流

 してきたおくびには、たっぷりと血の匂いが含まれていた。

  これで成すべきことは成した。次になにをすればいいのか桜には解らなかった

 が、どうやらそれを考える気力は残されていなかった。人肉を食したのだと意識

 した瞬間に、すべてを吐き戻してしまうだろう。

  柱の影でハイドが身じろぎをした。

  桜の頸が仰け反った。

  子宮を中心にして放たれた性的快感は強かった。性器も、脊髄も、内蔵も、脳

 も、すべてが漆にかぶれたのではと思わせるような掻痒感に包まれ、少女は声も

 なく痙攣を繰り返した。息は止まっていたが、それを苦痛だとも感じないまま。

  延々と続く絶頂の中で、桜は胃に異変を感じていた。もちろん自らの意思では

 ない。波うつように蠕動を繰り返すそこは、外見にもはっきりと認識出来るほど

 だ。

  そのうちに、胃の中に感じていた質量が、ふいに消失するのを知覚した。いや、

 消失したのではなく、微粒子となって拡散したのだ。それは胃壁を通り抜け、血

 流に含まれると、身体中を駆け巡り始めた。

  そのときの彼女は、桜であり知世であったのだろう。記憶が──もはや誰のも

 のかという区別は無用だった──溢れて弾けた。

  弾けた記憶は再び集まり始めたが、それは胃ではなく、子宮にであった。粒子

 は物体となり、その中で実体を形造る。

  激しい腹痛と吐き気に、桜は悶絶した。とてつもない快感の裏で、同じ強さの

 苦痛が猛威を揮う。両者の攻めぎあいは決して他方を駆逐しようとはせずに、ひ

 と塊となって脳を直撃した。

  桜の股に透明な粘液が溢れ、収縮した子宮から小さな物体が押し出されて膣を

 滑り始めたころ、彼女の意識は失われていた。最後に残っていた防衛機構が、修

 復不可能となる精神損壊を防ぐ為に、自らのスイッチを切ったのだ。

  ぴくりともしない少女を、男が見下ろしたのはいつだっただろうか。

  枯木のような腕が着衣をそっと脱がせると、そこには全長五センチ程度の勾玉

 状の、半透明の薔薇色の輝く物体が包まれていた。

  やがて物体は爬虫類のような姿を変化させ、体積を増し、生命の進化を辿って

 いるのだとひとに言わしめる過程を経て、産まれたばかりの嬰児となって眠り続

 けた。そして更に──。

  枯死した森を吹き抜ける風は、きっとこんな音をたてるのだろう。

 「見ているか? おれは命を生み出した。貴様らにそれが出来るか──」

  風には満足と、そして明らかな侮蔑が含まれていた。

  それを聞いた者はいたのだろうか。

  それを聞いた男はいたのだろうか。

  応えはなかった。

 

 

 

  汗だくになって瓦礫を取り除く作業に追われていた人々は、実はもはや大した

 情熱もなく腕を動かし続けていた。最近では慣れっこになってしまった単純作業

 だ。火災の報を受け、現場に向かう途中でそれは弾けた。どうやら初期火災の原

 因となったガス管から漏れ続けていたらしいガスが、火種を見つけてはしゃぎま

 わったらしい。地下駐車場は押し潰され、その上に建っていたビルは倒壊したが、

 大した事故ではない。

  今度は何人死んだのか。そんなことを考えながら無表情に働いていた人々の顔

 に、久方ぶりに人間らしい表情が戻ったのは、作業開始から三十分もしない頃合

 いだった。

  仲間の呼び声に駆けつけた人々は、力を併せて巨大な瓦礫を慎重に取り除いた。

 「生きてるぞ!」

  瓦礫が互いを支え、奇跡的に保たれていた空間に降りたひとりが短く言った。

  活気を取り戻した人々は腕を差し延べ、まずひとりの少女を救い出した。そし

 てまたひとり。

  奇妙なぬいぐるみを抱いた少女も、同じ年頃の全裸の少女も、どちらも昏々と

 眠り続けてはいたが、その顔は安らかだった。怪我ひとつ負っていない姿に、奇

 跡という言葉が口々から溢れ出た。

  ぼんやりと事故現場を見物していた人々もまた、ふたりの少女の姿に笑顔を浮

 かべた。神に、少女に、男たちに、そして自分たちに向けての喝采が響き渡った。

  ひとりめの少女を抱え、待機している救急車に向かっていた若い男は、腕の中

 の身体が動いたのを感じて視線を落とした。脚を止めないのは、喜びに満ちた重

 責の意味を理解していたからだ。

 「大丈夫か?」

  声を掛けると、少女はうっすらと眼を開けた。

  かすれた吐息に続き、

 「知世ちゃんは……?」

  と、小さいが、はっきりと聞き取れる声がした。

  男はこれなら大丈夫だと頷きながら、すぐに察して優しく言った。

 「大丈夫だよ。君と一緒に助けられた」

 「よかった……」

  しっかりとぬいぐるみを抱き、しかしぐったりと力を抜いた少女には、出来る

 ならば、そんな安堵のため息をついてみたいと思わせるような安息が満ちていた。

 だから男は微かな驚愕を覚えたのだ。これほどの幼い少女が、これほどの真摯な

 想いで友の──或いは肉親の──安否を気遣えるとは。

  周囲を包む歓声の渦の中、再びプロとしての誇りを取り戻した人々の間には充

 足に満ちた静寂が戻っていた。その最中にある少女は、自然と開けた道を抜けて、

 慎重に、手中の珠の如く運ばれた。

  そんなとき、その場に居合わせた人々の耳に、小さな音が届いたのだ。

  小さな、ほんの小さな乾いた音はたった一度きり、幻のように響いただけであ

 った。多々の音の中にあってかき消されそうなそれに、誰ひとりとして気を払っ

 た者はいなかった。そのくせ彼らは、先々の人生においてことある毎にそれを思

 い出すことになるのだ。難事や悲劇に立ちすくみながら、いつの日にか耳にした

 響きに励まされ、また新しい一歩を踏み出す勇気を得る。ああ、これで終わった

 のだ。そして自分にはまだ見ぬ始まりがある。それはそんな響きだった。

  救急車の扉を抱えられたまま抜けようとしていた桜もまた、その音を聞いてい

 た。視界の隅に男の姿が映り、それは自らの手にしたカードの中に消えたように

 思えたが、気のせいだったのかもしれない。小さく囁かれた名を耳にした者はい

 なかった。

  見上げた空は宵闇に包まれ、素晴らしく穏やかに流れていた。

 

 

 

                                 END

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